愛媛県の鉄道史

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本ページでは、昭和43年10月1日日本国有鉄道ダイヤ改正の前後などを参考に、愛媛県鉄道路線の歴史や付随するバス路線について記述する。

鉄道開通に至った経緯[編集]

現在の愛媛県を構成する伊予国では既に奈良時代から瀬戸内海を背景とした内航海運が発達し、沿岸には多くの港町が発展。戦国時代には河野水軍などの軍事船や海賊船も生じた。
江戸時代には北前船が寄港し、関門海峡日本海を経由して北海道東北地方北陸地方の海産物や農産物、近畿地方の工業製品が陸揚げされ、商業活動が盛んになった一方、四国の隣国は山岳で隔てられて、輸送力で船舶に劣る人馬を使う必要もあって、交流が少なかった。
明治時代になると旅客船貨客船による旅客輸送も増加し、まず、港町とかつての城下町を結ぶ路線から、鉄道建設に積極的な動きが出て、伊予鉄道が軌間762mmの軽便鉄道として、三津と松山(現・松山市)の間を開通させ、3年後に高浜まで延長した。伊予鉄道も1890年代に現在の横河原線や森松線を開通させ、次いで、南予鉄道が現在の郡中線、道後鉄道が道後温泉に向け、古町から分岐する現在の城北線など[注 1]を開通させた。
1900年(明治33年)には、伊予鉄道が南予鉄道と道後鉄道を合併し、中予の鉄道は一旦伊予鉄道に集約された。

松山市内の過当競争と県下の小鉄道の形成[編集]

伊予鉄道が高浜に延長すると、三津の港湾利用が減ったため、巻き返しを図るべく松山電気軌道が1907年(明治40年)に発足。鉄道官庁の認可を潜り抜けられる併用電車軌道、1435mmの標準軌で三津から古町・南堀端経由で道後温泉を結ぶ路線を1912年(大正元年)に開通させ、道後線(旧道後鉄道)を1067mm電化路線にした伊予鉄道に真っ向勝負を挑んだが、約10年後持久戦に負けた松山電気軌道は伊予鉄道に合併され、1067mm軌間に改軌され、札の辻(現・本町三丁目停留場)以東は、市内線(城南線)の一部となった。

大正に入ると松山のように、港湾と市街地を結ぶ軽便鉄道建設は県下の他の地域でもあり、大洲周辺では、愛媛鉄道が1920年までに現在の伊予長浜〜伊予大洲〜内子間で開業し、宇和島では宇和島鉄道が1914年に宇和島〜吉野生間で開業した。

伊予鉄道も旧態から脱皮すべく、上記の道後線に続き、1931年に高浜、横河原、森松の各線、1937年郡中線を1067mm軌間に改軌したが、高浜線以外は電化されず、軌間を拡げただけの軽便タイプの客車が戦後まで活躍した。

国鉄路線建設の遅れ[編集]

こうして県内には局地的な孤立民鉄路線が形成された一方、国鉄の路線建設は四国の香川徳島県に比べ、かなりの遅れをとることになった。
県内で最初に開業した国鉄線は、1916年に観音寺から川之江に延伸した讃岐線で、高知県には先んじるが、国鉄線の新規開業としては全国の道府県でブービーであった。
讃岐線は1919年伊予土居、1921年伊予西条に延伸し、1923年に壬生川に到達した時点で讃予線に変更した。讃予線は四国の有力港町である今治経由を志向したため、後年の南予地方と違い、高縄半島を短絡する伊予鉄道横河原線、郡中線の買収は行われなかった。
讃予線は大正年間に平成大合併で松山市域になった伊予北条に到達したが、県庁所在地の松山到達はさらに遅れ、1927年(昭和2年)で、松山駅開業は全国の県庁所在地の国鉄代表駅では最も遅い開業であった。これに連動して伊予鉄道も1927年(昭和2年)に古町 - 松山間の支線を開業させ、1936年(昭和11年)には西堀端まで軌道線を延伸している。
讃予線が現在の予讃線の名称になったのは1930年で電報などで、山陽本線との混同があったからとされる。1933年には予讃線が本線に昇格した。

予讃線の全通[編集]

鉄道省は1933年に愛媛鉄道、宇和島鉄道を買収して、一旦孤立線として運営して、軌間を762mmから1067mmへ拡げ、1939年に八幡浜、1945年に宇和島に到達して、高松駅宇和島駅を結ぶ予讃本線 (よさんほんせん)が全通した。

戦後[編集]

戦後の県内の国鉄新線開業は、1953年の宇和島線(旧宇和島鉄道)の江川崎延長、1986年の向井原 - 内子間の予讃新線のみで、殆どの地域で培養線として国鉄バスの路線が展開され賄われた。

民鉄線も、伊予鉄道の鉄道線で1950年に郡中線、1967年に横河原線が電化されたものの、先んじて1965年に森松線が廃線となっている。
市内軌道線は1947年(昭和22年)に花園線が新設された他、市内軌道線の一部区間が移設された。また、1962年(昭和37年)に本町線が延伸している。

東予では、鉱山鉄道から転換した住友別子鉄道が1955年に旅客営業を廃止している。

関連路線[編集]

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昭和43年10月1日ダイヤ改正での関連する国鉄バス路線[編集]

北四国急行線[編集]

予讃本線の補完目的の自動車線で、国鉄が6往復、四国急行バスが11往復の計17往復運転。冷房付きのリクライニングシートで急行料金が大人120円、子供60円であった。
国道11号経由で、伊予小松 - 松山間は桜三里を経由して高縄半島を短絡した。

松山・高知急行線[編集]

鉄道敷設法別表第102号の先行自動車線。国鉄時代は四国総局唯一の黒字路線と言われ、国鉄分割民営化後の比較的後年に高速道路に載せ替えて「なんごくエクスプレス」となるまで運転され、現在も久万高原町の久万高原駅以北がJR四国バスの久万高原線として運行している。松山駅高知駅の間を13往復、松山駅と佐川駅との間は7往復運転していた。特急料金は100円であった。

川池線[編集]

鉄道敷設法別表第101号の先行自動車線。川之江駅土讃線阿波池田駅を短絡する自動車線。国鉄分民化後も2001年まで運行された。現在は途中の七田まで瀬戸内運輸のバスが運行し、県境を越えることはできない。

南予線[編集]

鉄道敷設法別表第103号および第104号の先行自動車線。
伊予大洲駅予土線近永駅を短絡する自動車本線を軸に多数の支線を抱えた。
現在は殆どの路線が宇和島自動車に移管されている。

仁堀連絡船[編集]

予讃本線の堀江駅(松山市)と呉線仁方駅呉市)を連絡する鉄道連絡船宇高連絡船のオーバーフロー状態解消のために1946年5月に開設された本四間2番目の鉄道連絡航路だったが、国鉄最長片道きっぷ以外ではマイナーな存在に終わった。1982年6月一杯で営業終了。

参考文献[編集]

[編集]

  1. 一番町(現・大街道停留場付近) - 上一万間の鉄道線支線も有していた。