宇高連絡船

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

宇高連絡船(うこうれんらくせん)とは、岡山県玉野市香川県高松市の間を運航していた宇高航路に就役していた貨客船及び旅客船である。運航は日本国有鉄道四国旅客鉄道が行っていた。

航路名は野と松を結ぶことから。

概要[編集]

他の瀬戸内海航路に就役している内航海運フェリーとほぼ同じ大きさの貨客船であるが、車両航走のできる鉄道連絡船であった。グリーン席、普通席があったが、航行時間が1時間余りなので寝台室はなかった。

沿革[編集]

1903年3月18日に開業した岡山港-高松港航路及び多度津港-尾道港航路の2つを前身とする。1910年6月12日に宇野線が開通するとこれら2航路が統合され、宇野-高松航路が開設された。統合時は鉄道が香川県内しか通じていないため、局地航路の1つだった。
1920年代に予讃線、1930年代に土讃線が開業すると、以降は本州と四国を結ぶ幹線交通路として重用され[注 1]、車両航走も行われていた。

1955年5月11日、濃霧の中紫雲丸[注 2]と第三宇高丸が衝突し、紫雲丸が沈没する事故が発生。修学旅行中だった小学生を含む168人が死亡する大惨事となり、事故後しばらく香川県の小学校は修学旅行の行き先を宇高連絡船を使用しない四国内に変更するほどの衝撃を与え、車両航送も貨車限定となった。加えて瀬戸大橋児島-坂出ルート実現の大きな原動力となった。

1972年11月8日からは急行便としてホバークラフトが運行を開始した。車両渡船ではなく、純粋な旅客船であった。普通便が1時間かかるところを半分以下のわずか23分で結び「海の新幹線」のキャッチフレーズで不運にも予定していた連絡船に乗り遅れてしまった人などに人気を博したが、1975年に三原港に徒歩連絡できる地に新幹線三原駅が開業すると愛媛県方面へのビジネス客は三原 - 今治・松山間の民間高速艇と競合するようになった。

1985年末からは多客期の臨時急行便として旅客船である高速艇も登場。1987年4月1日の国鉄分割民営化に伴い、宇高連絡船の運航は四国旅客鉄道(JR四国)へと引き継がれた。
しかし、翌1988年4月10日本四備讃線開通で本四間が鉄路で結ばれたため、前日を以て連絡船の普通便とホバークラフトの急行便を廃止。高速艇も1990年3月に運航を休止し、翌年廃止された。

JR航路廃止後[編集]

JRの宇高間の普通船舶廃止と同時に三原 - 松山間の民間高速艇は撤退。JR宇高航路廃止後も民間のフェリー各社による宇高航路はしばらく存続し、瀬戸大橋の高額な通行料を嫌ったトラックドライバーに人気があった他、瀬戸大橋が強風で鉄路を含めて通行不能になった場合の代行輸送経路としても使われていた。
しかし、1998年明石海峡大橋の開通後に神戸淡路鳴門自動車道経由の高速バスなどの通行が増加し、民主党政権の施策と連動した通行料金の値下げや燃油価格高騰などが原因で利用者が減少し始め、2009年4月に本四フェリーが廃止撤退。2012年3月に宇高国道フェリーが運航を休止。最後まで残った四国急行フェリーも2019年12月を以て運航休止となり、宇高航路はその歴史に幕を下ろした。
現在も、直島の宮浦港や小豆島の土庄港を経由すれば、航路で宇野 - 高松間を往来できるが、一旦宮浦港か土庄港で下船が必要である。

関連項目[編集]

注釈[編集]

  1. 1935年に全通した高徳線については山陰・広島などからの局地的な交通に限られた。
  2. 紫雲丸は1950年にも死者を出す事故を起こしており、衝突後引き上げられた際、「死運」に通じることを嫌い、瀬戸丸と改名され、1966年まで航行した。