市川誠
市川 誠(いちかわ まこと、1912年3月11日 - 1999年5月21日)は、労働運動家。元・日本労働組合総評議会(総評)議長。
経歴[編集]
埼玉県所沢市生まれ[1]。高等小学校卒業後[2]、1931年陸軍航空本部所沢支部の給仕をしながら早稲田中等夜学校を卒業[3][注 1]。1932年専検に合格[1]。兵役を経て、1945年10月アメリカ軍ジョンソン基地に就職[3]。1946年4月ジョンソン飛行場従業員組合初代書記長[4][注 2]。1948年全国進駐軍労働組合同盟(全進同盟)書記長。1953~1976年全駐留軍労働組合(全駐労)中央執行委員長[3][注 3]。1970年8月~1976年7月日本労働組合総評議会(総評)議長。1976年総評顧問。1977年公共企業体等労働委員会(公労委)委員[5]、1978年第5期行政監理委員会委員[6]。
総評議長退任後は日中、日朝友好運動などに取り組み[2]、日中友好国民運動連絡会議議長[5]、日中労働者交流協会初代会長(1974年~)[7]、日中民間人会議顧問[3]、朝鮮の自主的平和統一を支持する日本委員会初代代表委員(1970年~)[8][9]、同国際連絡委員会副議長(1978年~)[9]、民主カンボジア国際会議日本委員会代表[3]、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)代表委員などを務めた[5]。
また総評3顧問(太田薫・市川誠・岩井章)として「連合」主導型労働戦線統一に反対し[3]、1981年8月に「労戦統一に関する要望書」を発表[10]。1983年3月に労働運動研究センター(労研センター)を結成し、代表幹事[3]。1987年9月に総評幹事会は3人を顧問に推薦せず、総評顧問を事実上解任された[10]。1989年の全国労働組合連絡協議会(全労協)結成に尽力。『労働情報』顧問(1977~1995年)、同代表(1982~1992年)も務めた[11]。
1999年5月21日、肺炎のため埼玉県所沢市の病院で死去。87歳[8]。
人物[編集]
1951年に結成された労働者同志会の主要メンバー[12]。1953年に労働者同志会が平垣美代司、石黒清、北川義行、市川誠、清水慎三ら高野派と、太田薫、岩井章、宝樹文彦、原茂ら反高野派に分裂[13]。1954年に高野派の労組幹部や学者・文化人が創刊した雑誌『国民』の発起人の1人となった[14]。1956年に高野派に推されて総評議長に立候補したが、太田、岩井、宝樹、原らに推された原口幸隆に169対130の大差で敗北した[13]。1961年に総評社会党員全国連絡協議会代表幹事[15]、1970年に総評議長となった。1977年に雑誌『労働情報』が創刊された際には松尾喬、兼田富太郎、清水慎三とともに顧問となった[16]。
著書[編集]
- 『直言 総評三顧問 日本労働運動再生への構想』(太田薫、市川誠、岩井章他著、柘植書房、1983年)
- 『危機にたつ総評――行革攻撃と労働運動』(太田薫、岩井章共編著、社会評論社、1985年)
- 『朝鮮で見たこと考えたこと』(彩流社、1989年)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ↑ a b 20世紀日本人名事典の解説 コトバンク
- ↑ a b 高木郁朗監修、教育文化協会編『日本労働運動史事典』明石書店、2015年、32-33頁
- ↑ a b c d e f g 清水慎三「市川誠」、朝日新聞社編『「現代日本」朝日人物事典』朝日新聞社、1990年、163頁
- ↑ 狭山市編『狭山市史 通史編 Ⅱ』狭山市、1995年、765頁
- ↑ a b c 平凡社教育産業センター編『現代人名情報事典』平凡社、1987年、91頁
- ↑ 行政管理庁史編集委員会編『行政管理庁史』行政管理庁、1984年
- ↑ 日中労働者交流協会 趣意書 日中労働者交流協会
- ↑ a b 朝鮮統一支持日本委初代議長市川誠氏が死去 朝鮮新報
- ↑ a b 谷木寛作「風雲去来人馬 市川誠さんの思い出」『月刊社会民主』533号、1990年10月
- ↑ a b 法政大学大原社会問題研究所編『新版 社会・労働運動大年表』労働旬報社、1995年
- ↑ 前田裕晤著、江藤正修編『前田裕晤が語る 大阪中電と左翼労働運動の軌跡』同時代社、2014年、132頁
- ↑ 労働運動史編纂委員会編『総評労働運動の步み』総評資料頒布会、1975年
- ↑ a b 神代和欣、連合総合生活開発研究所編『戦後50年産業・雇用・労働史』日本労働研究機構、1995年
- ↑ 国民文化会議資料インデックス 法政大学大原社会問題研究所
- ↑ 労働省編『資料労働運動史 1961』労務行政研究所、1963年
- ↑ 江藤正修編『資料集 戦後左翼はなぜ解体したのか』同時代社、2006年