小里光明
小里 光明(おり みつあき、天文5年(1536年)- 慶長6年9月12日(1601年9月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。美濃国小里城主。父は小里光忠。
略歴[編集]
通称は助右衛門。織田信長が美濃を平定する永禄10年(1567年)までに従っていたと見られている。
兄に光次がいたため、光明に家督相続の可能性は無かった。しかし元亀3年(1572年)の上村合戦で光次は秋山虎泰に敗れて戦死し、その跡を継いだ光次の子・光久も本能寺の変で信長・信忠に殉じたため、家督を相続した。なお、天正2年(1574年)頃には東美濃衆の1人として信忠に属していたと見られている。
本能寺の変後に家督を相続すると、清須会議で美濃国主となった信長の3男・織田信孝に仕えた。信孝が羽柴秀吉と対立して戦闘に至った際、多くの信孝に従う国衆が離反する中で光明は信孝に忠誠を尽くした。天正11年(1583年)閏1月17日、光明はその戦功を信孝から賞され、4月22日には北近江戦線の戦況を報されているほどである。同年、信孝は秀吉に敗れて自害するが、この際に光明は秀吉に従うことを潔しとせず所領を放棄し、遠江国の徳川家康を頼って落ち延び、ここで和田と改姓して徳川氏の家臣となり、三河国小原に住んだ。
天正12年(1584年)には小牧・長久手の戦いに従軍し、ここで嫡子の光直が負傷して後に落命した。同年6月13日に家康は光明に対し、美濃土岐郡・恵那郡の旧領を所領安堵されているが、当時の美濃は秀吉の所領であるため、これは単なる空手形だったと見られる。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康が秀吉の命令で関東に移ると、光明には相模国東郡岡田郷に300石の知行を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川方として、美濃明智城を攻撃して落とすという軍功を立てている。この功績により、小里氏は旧領復帰を許された。
慶長6年(1601年)9月に死去。享年66。