小弓城
小弓城(おゆみじょう)とは、現在の千葉県千葉市中央区南生実町にかつて存在した日本の城である。生実城とは別の城である。
概要[編集]
現在の大覚寺山古墳の南東およそ1キロの地点にある。生実台バス停から東へ坂道を登り詰めた右手の高台が本丸跡で、その東に日本武尊を祀る八剣神社がある。
この城は室町時代前期の応永年間(1394年 - 1428年)に千葉氏の家臣・原胤高(四郎)が築城したといわれている。室町時代中期の享徳年間(1452年 - 1455年)に原氏の当主であった原胤房は馬加城主・馬加康胤と結んで主君の千葉氏第13代当主・千葉胤直を千葉城に襲撃して胤直を香取郡に追い詰めて殺害した。永正年間(1504年 - 1521年)に原胤隆は上総国真里谷城主の真里谷恕鑑と争いを繰り返していたが、永正14年(1517年)10月に恕鑑は古河公方・足利政氏の次男・足利義明を擁立して一気に小弓城を攻め落とし、義明はここを居城とした。義明は安房国の里見氏、下総国の酒井氏らを従わせて勢力を拡大し、小弓公方と称して小弓城はその公方の居城であるとして小弓御所と呼ばれた。
しかし古河公方の足利晴氏は義明を認めず、その勢力が拡大することを恐れて下総国の千葉氏や原氏、さらに相模国の北条氏綱に呼びかけて足利義明の討伐を準備する。北条氏綱の軍勢を主力とする足利晴氏方と、真里谷氏や里見氏を主力とした足利義明方が国府台で天文7年10月7日(1538年10月29日)に激突する。いわゆる第1次国府台の戦いで、この戦いで義明は戦死し、真里谷氏や里見氏の軍勢は敗退し、小弓城は北条氏綱によって攻略され、原氏が小弓城主として復活するも、原氏は新たな居城として生実城を築城して居城を移したため、小弓城は廃城となった。
現在は城の遺構はほとんど残されていないが、東側には掘跡と推定される大百池が遺存している。また八剣神社に伝承される十二座神楽は江戸時代中期、上総国一の宮の玉前神社の神楽人から伝えられたものといわれており、古い歴史を持ち、舞は巫女舞、湯笹の舞、猿田彦舞など12座からなり、毎年7月27日の神社の例祭日に神前で演じられている。