足利政氏
足利 政氏(あしかが まさうじ、寛正3年1月7日(1462年2月6日) - 享禄4年7月18日(1531年8月30日))は、戦国時代の大名。第2代古河公方(在職:明応6年(1497年) - 永正9年(1512年))。
生涯[編集]
父は初代古河公方の足利成氏[1]。母は簗田直助の娘・伝心院。兄弟に上杉顕実、貞巖昌永。子に高基、義明、基頼。法号は道長[1]。官位は従四位下左馬頭[1]。
政氏は家督相続前から扇谷上杉氏の上杉定正と通じて山内上杉氏の上杉顕定と交戦したり、その定正が死去すると明応5年(1496年)には顕定と手を結んで定正の跡を継いだ上杉朝良と交戦したりしている[1]。明応6年(1497年)に父が死去したため、家督を相続して第2代の古河公方に就任する[1]。
この頃、南関東では北条早雲の勢力が次第に強大化する兆しが表れており、政氏は早雲に対抗するため永正2年(1505年)から山内・扇谷の両上杉氏と同盟を結ぼうとした[1]。ところが嫡子の高基が上杉氏との和平に反対して父子対立に発展し[2]、永正3年(1506年)に政氏は高基を下野の宇都宮氏の下に追放した[1](永正の乱)。永正6年(1512年)に高基と和睦して古河への帰還を許したが、北条早雲の策謀により再度父子対立となり[1]、今度は政氏が敗れて6月に下野祇園城の小山政長の下に逃亡し[2]、この際に古河公方の地位も廃されて高基が第3代古河公方に就任してしまった[1]。またこの父子対立で僧籍にしていた別の息子の空然が勝手に還俗して足利義明と名乗ってしまい、この義明とも不仲になっている[2]。永正11年(1514年)8月に政氏は岩城由隆・佐竹義舜らに高基を攻撃させている。
政氏は武蔵岩槻城に移り、永正16年(1519年)に武蔵久喜に隠居する[2]。享禄4年(1531年)7月18日、久喜において死去した[2]。享年66。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『戦国人名事典コンパクト版』 阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月 ISBN 4-404-01752-9