千葉城

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが千葉城の項目をおカタく解説しています。

千葉城(ちばじょう)とは、現在の千葉県千葉市中央区亥鼻にかつて存在した日本である。現在は亥鼻公園(いのはなこうえん)となっている。

概要[編集]

この城は現在の千葉駅の南東およそ1キロ、千葉市街地に向かって張り出た海抜20メートル余りの亥鼻丘陵の突端にあった。そのため、別名を亥鼻城(いのはなじょう)とも言う。

平安時代後期の大治元年(1126年)に千葉常重によって築城された。この千葉氏とは、平高望の4男である平良文を祖とする一族で、平安時代中期頃に現在の千葉市内の土気町にあった大椎城に本拠を置いて、両総地方に勢威を張っていた。千葉城を築いた常重は良文から数えて6代目の孫であるとされる。この常重の長男が有名な千葉常胤で、この常胤の時代に千葉氏は全盛期を迎えると同時に、常胤は父とともに居城を千葉城に移している。城下町も「表千軒」「裏千軒」と称されて大いに繁栄した。

しかしこの千葉氏も、代を重ねるたびに後継者を争う御家騒動に見舞われて衰退する。室町時代中期の康正元年(1455年)3月には、第13代当主・千葉胤直が一族の馬加城主・馬加康胤と家臣の原胤房に反乱を起こされ、これにより千葉城は焼失して城下町も被害を受け、千葉家の嫡流も断絶する憂き目にあった。この後は馬加氏が千葉介の名跡を継承したものの、最早千葉氏は落日の一途をたどるだけとなった。

現在、千葉城一帯は亥鼻公園、文化の森となっており、日本庭園や千葉市郷土博物館、文化会館、図書館などが設けられている。城の遺構はほとんど残っていないが、北側が都川によって自然の水堀となり、西側が断崖、南側が細長い侵食谷、東側が台地続きで入り組んだ小さな谷を空堀としている。内郭は千葉市郷土館の裏手から亥鼻公園を含む地域で公園中央に遺存する土塁で囲まれたところが本丸である。この北西の神明神社付近に物見櫓があり、外郭の東端にあたる。千葉大学整形外科病棟の門前あたりに大手口があったと推定されている。本丸の土塁から北西へ坂を下り、国道126号線(東金街道)へ出る手前に不動堂があるが、この脇にお茶の水と呼ぶ泉が湧いている。これは常胤が源頼朝を千葉城に迎えた際、この水でお茶をたてたと伝えられ、この名があるとされている。また、平良文の子である平忠頼が生まれた際、水が湧きだしたとも言われており、千葉氏では代々がこの水を産湯水に使って出生した子供の武運長久を祈ったと伝えられている。現在は湧水は止まっており、水道の水を出して昔の面影を伝えている。

公園の東方、千葉大学医学部付属病院の構内には「七天王塚」と称される7つの塚が北斗七星のように点在しているが、千葉氏は妙見神、すなわち北斗七星を氏神として月星、九曜紋を家紋とすることで知られている。七曜、九曜といった星辰は弓箭を保護する仏天として妙見菩薩信仰の対象とされる軍神である。これとは別に七天王塚は千葉氏が同じ平高望を祖とし、天慶の乱で滅亡した平将門の霊を慰めるために建てた「七騎武者」の墓とも言われている。七騎武者には将門と6人の影武者、あるいは6人の兄弟、6人の協力者という3つの説が伝わっている。これらは千葉氏時代を偲ばせる遺構のひとつとされている。

アクセス[編集]

  • JR千葉駅からバスで(京成バス「大学病院」行き)「郷土館」から徒歩で3分。
  • JR本千葉から徒歩で15分。

外部リンク[編集]