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四宮正貴
四宮 正貴(しのみや まさき、1947年3月17日[1] - 2021年4月4日[2][3])は、著述家、政治運動家[注 1]。四宮政治文化研究所代表[7]。元一水会常任顧問[8]。
葬儀で読まれた諷誦文では、俗名が四宮眞樹(まさき)となっている[9]。
経歴[編集]
東京・千駄木生まれ[7]。父は幹部自衛官[10]。文京区立中学、東京都立高校を経て、1969年二松學舍大学文学部国文科卒業[11]。中学2年のときに谷口雅春の『生命の実相』を読んで感銘を受け[12]、中学3年のときに生長の家に入信した[10]。高校時代は帝都日日新聞社主の野依秀市の書生をした[13]。学生時代は生長の家高校生連盟(生高連)[14]、生長の家学生会全国総連合(生学連)で活動した[12][14][15]。
1969年4月から約7年間、二松學舍大学付属図書館に司書として勤務[11]。1976年6月まで国文科研究室助手を兼務[11][16]。1970年に中河與一主宰の「ラマンチャ」に入会し指導を受く[7][注 2]。中河の妻で「をだまき」を主宰する中河幹子に短歌を学ぶ[6]。1972年5月に鈴木邦男、阿部勉、犬塚博英、伊藤邦典、田原康邦、田村司らと新右翼団体「一水会」を結成[17]。1975年に河童愛好の集い「かっぱ村」に入会(1986年時点で助役代理[7]。1988年時点で助役[18]。村長は中河與一[19][18])。
1976年に二松學舍大学を退職後、著述活動、政治運動に従事[7]。新聞記者・フリーライターを経て、1982年7月に「四宮政治文化研究所」を設立[11][注 3]。1984年から月刊誌『政治文化情報』を刊行[11]。1985年から「萬葉古代史研究会」講師[16]。2010年から季刊誌『伝統と革新』(たちばな出版)の編集責任者[20]。
2021年4月4日、脳溢血のため都内の自宅マンションで急逝した。享年74歳[2][注 4]。ブログの最終更新は死去前日の4月3日22時31分だった[21]。4月9日に葬儀が行われ、犬塚博英(八千矛社社主・民族革新会議議長)、丸川仁(政治結社大行社理事長)、渡邊昇(日本の心を学ぶ会代表)、たちばな出版の関係者が参列した[9]。月刊誌『政治文化情報』は令和3年3月28日付の424号が最後となった[6]。季刊誌『伝統と革新』は2021年5月発売の第38号で休刊となった。
人物[編集]
- 戦後生まれの右翼理論家の1人[14]。鈴木邦男や犬塚博英らとともに新右翼の論客といわれた[12]。荒岩宏奨(展転社代表取締役)は「民族派陣営の講演会や勉強会で講師を務めることも多く、民族派きっての博識者であった」と評している[3]。渡邊昇(牢人新聞社主幹、日本の心を学ぶ会代表)は「四宮正貴先生は國體や憲法に関する記述や論調、記紀万葉など古典の造詣の深さは愛国陣営の幅広い支持を受けていました」と評している[9]。
- 万葉集の研究家としても知られた[3]。大学の卒業論文は「萬葉集にあらわれたる日本伝統信仰」。以来、万葉集研究をライフワークとしていた[11]。「萬葉古代史研究會」を開催して講師を務め、自身でも和歌を詠んだ[3]。
- 四宮の性格について、鈴木邦男は「四宮氏は「生長の家」出身者で生真面目だ。不正を許せない。正義感が強いし、だから、キレやすい。」[22]、渡邊昇は「しかしながらご親族も旧友の方も口を揃えるように言われるのは「瞬間湯沸かし器」。烈火の如く怒る姿はまるで雷鳴そのものです。」と述べている[9]。
- 1979年4月に鈴木邦男と四宮正貴は竹中労の招待で「東郷健十周年記念公演『悲しき人類』」という芝居を鑑賞したが、昭和天皇がマッカーサーに犯されるシーンがあったためその場で抗議した。2人の抗議で混乱が起き、芝居は中止となった。竹中は東郷が出馬する東京都知事選の話題作りのために芝居をプロデュースしていた。鈴木は右翼の襲撃も2人の性格を知る竹中の計算通りだったのではないかと推測している[22]。
- 1990年2月23日放送の「朝まで生テレビ! 激論!日本の右翼と言論の自由と暴力!!」で小沢遼子と大喧嘩をした。小沢に天皇の問題でチャチャを入れられたため[22]。
- 2004年6月26日放送の「朝まで生テレビ! 徹底討論!皇室とニッポン!」で田原総一朗と大喧嘩をした[22]。田原から「聖徳太子は、知らない?」「聖徳太子というのを知らないかというの。」と質問されたことに対し、「当たり前でしょ、そんなこと! 何を言ってるの。聖徳太子を知らないかって、そんな無礼な質問があるか!」と激怒した。さらに田原から「そういうこと言うから、あなたね、人格破綻だと言われるんだよ」と言われると、「人格破綻は君だよ、無礼な質問をして!」「じゃあ、君はイエス・キリストを知っているのか? そう聞かれたら、どうするんだ、君!」などと反論した[23]。四宮によると、四宮のウェブサイトには放送の翌日と翌々日に合わせて1万以上のアクセスがあり、「多くの方々から御激励・御賛同・御批判・御忠告などを頂きました」とのことである[24]。
- 2018年7月に開催された博友会(犬塚博英世話人主催)で講師の菅野完(『日本会議の研究』著者)と会場の村田春樹(自治基本条例に反対する市民の会会長、元楯の会会員)との間が質疑応答で険悪な雰囲気となり、槇泰智(政経調査会代表)によると「数点のやり取りの後で菅野氏は「レイシストには発言権はないんだよ」「座れよ」「今日は会場で、あんたの顔を見たときから言ってやろうと思っていたんだよ」、と講師らしからぬ発言が突出。会場の四宮正貴氏からは「礼儀をわきまえなさい」、だったかの檄が飛び、朝生状態。」となったという[25]。四宮はこのときのことについて「また、菅野氏は、元楯の会の人の質問が終らないうちに、感情的に反発した。菅野完氏は「決めつけ」が多い。「レイシスト」「反知性主義」などという言葉はその定義を明確にして使わなければならない。」と述べている[26]。
- やまと新聞社の記者を務めた[27]。
- 一水会の創設時の世話人の1人で[28]、同会の国際局長を務めた[29]。1982年時点で退会していた[30]。2005年および2013年時点で一水会顧問[31][8]。一水会のTwitterは四宮の訃報について「最近も執筆の相談等を頂き、精力的な活動を展開されていただけに残念でならない」と述べている[32]。
- 1974年時点で学生青年純正同盟(学純同)所属、大日本愛国団体連合・時局対策協議会(時対協)会員[33]。1978年時点で学純同行動副長[34]。1982年時点で皇道青年連盟参与、野武士会事務局長、四宮文化研究所代表[30]。2021年の死去時点で政治結社大行社顧問、日本の心を学ぶ会(2010年から渡邊昇が開催している勉強会)講師[9]。
- 1975年6月に開催された「赤尾敏激励会」の発起人の1人[35]。
- 1976年6月に鳥海茂太、野村秋介、鈴木邦男らが中心となって発足した「新しい日本を創る青年集会」の常連参加メンバー[36]。
- 創価学会職員が『聖教新聞』1982年11月15日付「壮年部座談会」の記事において、月刊ペン事件と山崎正友三億円の両裁判に池田大作名誉会長が出廷した際に右翼の宣伝カーが池田を批判したことについて「あとで、誰かからお金をもらっていることは間違いないが……(大笑い)」と発言した。この発言に対し、四宮ら右翼4人が創価学会本部に乗り込み抗議した。その結果、12月11日付の『聖教新聞』に関係者に謝罪するとともに発言は削除するという訂正記事が出た[37]。
- 1989年7月に民族革新会議が開催した「皇位継承に伴う相続課税阻止国民大会」に加瀬英明、大原康男、木村三浩らとともに出席した[38]。
- 2004年1月から正気塾の事務所で月1回開催している会合「九段下沙龍(サロン)」の同人で毎回出席していた[3]。
- 2008年に結成された体罰の会の発起人[39]。
- 半田晴久(深見東州)が代表取締役社長を務めるたちばな出版が刊行していたオピニオン誌『伝統と革新』の編集責任者。2014年6月に半田が会長を務める特定非営利活動法人世界芸術文化振興協会主催の「東京国際コンサート」を鑑賞し、ブログで「半田氏は、宗教家であると共に、オペラ・能・絵画などの藝術活動を見事に行われている。」「近年、半田氏のお招きで、今まであまり縁がなかったオペラや西洋音楽そして能を鑑賞する機会を与えられ、感謝している。」と述べている[40]。鈴木邦男によると、一水会創設メンバー(鈴木邦男、阿部勉、犬塚哲爾、四宮正貴、田原康邦、田村司)は民族派の重鎮である中村武彦の教えを受けていたが、一水会フォーラムの講師をしたことがある深見東州も25歳のとき以来、中村の教えを受けていた[41]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『天皇国日本論』(展転社、1986年)
- 『日本的文藝論』(国書刊行会、1987年)
- 『創価学会を撃つ!!』(展転社、1988年)
- 『天皇・祭祀・維新』(全貌社、1990年)
- 『平成維新試論』(エスエル出版会、1992年)
- 『偉大なる池田大作先生を讃えるの書』(エスエル出版会、1993年)
- 『歴史と詩歌の旅を行く』(展転社、1995年)
共著[編集]
- 『徹底討論!皇室は必要か――朝まで生テレビ!』(田原総一朗責任編集、猪瀬直樹、笠原秀彦、工藤雪枝、小林よしのり、小宮山洋子、高橋紘、遙洋子、宮崎哲弥、森岡正宏、八木秀次共著、PHP研究所、2004年)
テレビ出演[編集]
- 激論!日本の右翼と言論の自由と暴力!!(1990年2月23日放送) - 右翼として浅沼美智雄、岸本力男、箱崎一像、松本効三、四宮正貴、木村三浩、鈴木邦男の7人が出演した[42]。
- 激論!これでいいのか日本!〜歴史認識・北朝鮮・安全保障~(2002年11月29日放送)[43]
- 徹底討論!皇室とニッポン
脚注[編集]
注[編集]
- ↑ 日外アソシエーツ編『市民・社会運動人名事典』(日外アソシエーツ、発売:紀伊國屋書店、1990年)では「著述家、政治運動家、宗教運動家」。『徹底討論!皇室は必要か』の著者略歴では「著述家、四宮政治文化研究所代表」。『改革者』『Kakushin』等では「評論家」[4]。『大吼』等では「政治評論家」[5]。ビューポイントでは「政治評論家で万葉集研究家」[6]。
- ↑ 四宮正貴『創価学会を撃つ!!』(展転社、1988年)によると、1972年より中河與一に師事[16]。
- ↑ 猪野健治編著『右翼民族派・総覧 平成3年=1991年版』(二十一世紀書院、1990年)386頁によると、1979年4月1日結成。
- ↑ 荒岩宏奨(展転社代表取締役)によると、脳虚血症疾患で死去した[3]。
出典[編集]
- ↑ 千駄木庵日乗三月十七日 四宮政治文化研究所、2015年3月18日
- ↑ 以下の位置に戻る: a b 訃報 四宮正貴先生が逝く 一介の素浪人、2021年4月7日
- ↑ 以下の位置に戻る: a b c d e f 【日本への回帰】 追悼・四宮正貴氏 やまと新聞社、2021年4月13日
- ↑ 四宮正貴「日本における改革思想の創出への試論――合理主義の限界と伝統精神の復権」『改革者』第19巻第12号(通巻228号)、1979年12月。四宮正貴「詩歌に表れた日本人の心 第一回 恋歌こそ日本詩歌の主流」『Kakushin』第257号、1992年1月。
- ↑ 『再興十周年の歩み――政治結社大行社』政治結社大行社、1990年、231頁
- ↑ 以下の位置に戻る: a b c 政治評論家で万葉集研究家の四宮正貴さん死去 ビューポイント、2021年4月15日
- ↑ 以下の位置に戻る: a b c d e 四宮正貴『天皇国日本論』展転社、1986年、著者略歴
- ↑ 以下の位置に戻る: a b 一水会とは 一水会公式サイト
- ↑ 以下の位置に戻る: a b c d e 四宮正貴先生の葬儀 一介の素浪人、2021年4月11日
- ↑ 以下の位置に戻る: a b 四宮正貴『平成維新試論』エスエル出版会、1992年、19頁
- ↑ 以下の位置に戻る: a b c d e f プロフィール 四宮政治文化研究所
- ↑ 以下の位置に戻る: a b c 山平重樹『果てなき夢――ドキュメント新右翼』二十一世紀書院、1989年、223頁
- ↑ この頃出した手紙・この頃思ったこと 四宮政治文化研究所
- ↑ 以下の位置に戻る: a b c 「表現の自由」研究会編著『現代マスコミ人物事典』二十一世紀書院、1989年、456頁
- ↑ 四宮正貴『平成維新試論』エスエル出版会、1992年、82頁
- ↑ 以下の位置に戻る: a b c 創価学会を撃つ!! 展転社
- ↑ 一水会編『対米自立を貫いて――民族派・一水会の50年』花伝社、発売:共栄書房、2024年、15頁
- ↑ 以下の位置に戻る: a b 地域雑誌『谷中・根津・千駄木』其の十五(1988年・春)
- ↑ 山本政雄編著『河童百趣』日貿出版社、1983年、109頁
- ↑ コラムニスト やまと新聞社
- ↑ 桜の花とやまと歌の心 四宮政治文化研究所、2021年4月3日
- ↑ 以下の位置に戻る: a b c d 鈴木邦男『竹中労――左右を越境するアナーキスト』河出書房新社[河出ブックス]、2011年、140頁
- ↑ 田原総一朗責任編集『徹底討論!皇室は必要か――朝まで生テレビ!』PHP研究所、2004年、148-149頁
- ↑ 朝まで生テレビ出演(平成16年6月25日) 四宮政治文化研究所
- ↑ 平成28年7月度博友会 参加レポート② 槇泰智さん 犬塚博英のブログ、2016年7月7日
- ↑ 平成28年7月度博友会 参加レポート① 四宮正貴さん 犬塚博英のブログ、2016年7月6日
- ↑ 写真:過去、やまと新聞社の記者でもあった、四宮政治文化研究所・四宮正貴氏 撮影:楠田真悟 Flickr
- ↑ 感謝感激でした!一水会40周年大会 鈴木邦男をぶっとばせ!、2012年9月24日
- ↑ 山平重樹『果てなき夢――ドキュメント新右翼』二十一世紀書院、1989年、305頁
- ↑ 以下の位置に戻る: a b 穂坂久仁雄「新右翼・民族派の核意識」『現代の眼』1982年5月号
- ↑ 過去のフォーラム 一水会
- ↑ 一水会のツイート、2021年4月8日
- ↑ 荒原朴水『大右翼史 増補』大日本一誠会出版局、1974年、1164頁
- ↑ 藤田五郎編著『公安百年史――暴力追放の足跡』公安問題研究協会、1978年、677頁
- ↑ 繁田千治編『日本右翼の動向と現勢』公安資料協会、1975年、420-421頁
- ↑ 山平重樹『果てなき夢――ドキュメント新右翼』二十一世紀書院、1989年、332頁
- ↑ 溝口敦『池田大作「創価王国」の野望』紀尾井書房、1983年、74-75頁
- ↑ 堀幸雄『右翼辞典』三嶺書房、1991年、428頁
- ↑ 発起人名簿 体罰の会
- ↑ 『東京国際コンサート』を鑑賞して思ったこと 四宮政治文化研究所、2014年6月19日
- ↑ ヤマトタケルの謎。学生証の謎 鈴木邦男をぶっとばせ!、2010年1月25日
- ↑ 『激論!日本の右翼――朝まで生テレビ!』全国朝日放送、1990年
- ↑ 11月のテーマ・パネリスト 朝まで生テレビ!
- ↑ 6月のテーマ・パネリスト 朝まで生テレビ!
- ↑ 田原総一朗責任編集『徹底討論!皇室は必要か――朝まで生テレビ!』PHP研究所、2004年、204頁
関連文献[編集]
- 竹中労『竹中労の右翼との対話』(現代評論社、1981年)
- 野村秋介『塵中に人あり――右翼・任侠・浪漫』(廣済堂出版、1986年)
- 改題・再版『汚れた顔の天使たち』(二十一世紀書院、1991年)
- 『初心者にもわかる百人一首――日本文化の結晶・優美な和歌の世界を学ぶ』(メディアックス[Mediax mook]、2013年)
- 前田朗、木村三浩編著『東アジアに平和の海を――立場のちがいを乗り越えて』(彩流社、2015年)
- 鈴木邦男『新右翼〔最終章〕――民族派の歴史と現在』(彩流社、2023年)
外部リンク[編集]
- 四宮政治文化研究所(Wayback Machine)
- 四宮政治文化研究所(ブログ)(Wayback Machine)
- 四宮正貴 (@m_shinomiya) | Twitter(Wayback Machine)