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一水会 (政治団体)

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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一水会(いっすいかい)は、政治団体。新右翼の代表的な存在であったが[1][2]、2015年5月に右翼団体と自称することを止めると宣言した[3]

結成の経緯[編集]

1970年11月の三島・森田事件に触発され、1972年3月3日に民族派学生運動OBの鈴木邦男阿部勉伊藤邦典田原康邦らが「マスコミ研究会」という勉強会を開催した[2][4]。マスコミ研究会という名称は阿部が『論争ジャーナル』の編集にかつて携わっていたのをはじめ、鈴木がサンケイ新聞、伊藤が国民新聞、田原が内外タイムスに勤めており、マスコミ関係者が多かったことから名付けられた[4]。その後、犬塚博英が加わり、さらに民族派学生運動OBがセクトを超えて集まるようになり、マスコミ人だけに限定しない、より民族派的な性格の集まりにしようということになった[4]。1972年5月30日[5]に鈴木が代表世話人、阿部、犬塚、伊藤、田原の4人が世話人となり、一水会を結成した[4]。鈴木邦男公式サイトによると、四宮正貴田村司も創設時の世話人だった[6]。一水会公式サイト(2014年3月28日時点)によると、鈴木、阿部、犬塚、四宮、伊藤、田原らが中心となり、一水会を結成した[5]。一水会編『対米自立を貫いて――民族派・一水会の50年』(花伝社、発売:共栄書房、2024年)によると、鈴木、阿部、伊藤、犬塚、四宮、田原、田村らが一水会を結成した。

1972年5月30日に一水会の第一回目の会合を開催し、以後、マスコミ研究会と並立して続けられた[7]。一水会という名称は毎月一回第一水曜日に例会を持とうということから便宜的に名付けられた[4]。その後、「良識復活国民運動」の笹井大庸宏次朗兄弟をはじめ急進的な青年や学生が参加して直接行動を志向したこと[8]、1974年3月25日に鈴木邦男が防衛庁への抗議活動で検挙、サンケイ新聞社を解雇され、運動に専念[9]したことにより、サークルから急進的な民族派団体へと性格を変えた[2]。1975年8月に機関紙『レコンキスタ』(失地回復)を創刊した。

結成宣言では「吾人は尊攘の精神の下に果敢な戦いを続けた先覚的維新者、特に来島恒喜山口二矢平岡公威森田必勝の維新的経験を非統一的に継受発展させんとする同志的結合体である。吾人等の団結を保障するものは理論的綱領的一致ではなく、心情的行動的一致である。維新を永久的浪漫対象とする吾人等は維新を阻害し停滞させる諸体制諸権力と対立し、その破壊を目的として行動する」と述べている[2]

代表[編集]

所在地[編集]

一水会事務局 東京都新宿区下落合1-2-5 第23鈴木総合ビル2F

出典[編集]

  1. 高木正幸『右翼・活動と団体』土曜美術社、1989年、26頁
  2. 以下の位置に戻る: a b c d 堀幸雄『右翼辞典』柏書房、1991年、38頁
  3. 一水会独自活動宣言 一水会、2015年5月22日
  4. 以下の位置に戻る: a b c d e 山平重樹『果てなき夢――ドキュメント新右翼』二十一世紀書院、1989年、227-229頁
  5. 以下の位置に戻る: a b 一水会とは 一水会公式サイト
  6. 感謝感激でした!一水会40周年大会 鈴木邦男をぶっとばせ!、2012年9月24日
  7. 山平重樹『果てなき夢――ドキュメント新右翼』二十一世紀書院、1989年、230頁
  8. 山平重樹『果てなき夢――ドキュメント新右翼』二十一世紀書院、1989年、231-232頁
  9. 山平重樹『果てなき夢――ドキュメント新右翼』二十一世紀書院、1989年、232-235頁

関連項目[編集]

外部リンク[編集]