保岡興治

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保岡 興治(やすおか おきはる、昭和14年(1939年5月11日 - 平成31年(2019年4月19日)は、日本政治家、元裁判官弁護士、元法務大臣衆議院議員(13期)。

来歴[編集]

鹿児島県出身。既婚者である。昭和39年(1964年)に中央大学を卒業後、弁護士となる。昭和47年(1972年)に第33回衆議院議員総選挙に前回選挙限りで引退した大島郡宇検村出身の父・武久の地盤を引き継いで出馬し初当選して、以後13期務めた。

父・武久や興治自身の出馬当初の頃は激しい選挙戦争を繰り広げた衆議院奄美群島選挙区だったが、興治の3、4期目は対立候補は共産党のみで無風独走状態だった。しかし、徳洲会病院で成功した徳之島出身の徳田虎雄1983年から出馬し始めると、1992年の奄美群島区の消滅まで保徳戦争と称される、選挙戦争に戻ったことで知られている。

平成6年(1994年)に新進党の結成に参加して自民党から離れたが、翌年に復党する。元弁護士で裁判官であることから法務行政に精通していたため、平成12年(2000年)に森喜朗内閣で法務大臣として入閣する。平成20年(2008年)には福田康夫内閣でも法務大臣として入閣した。さらに司法制度改革に関する与党プロジェクトチームの座長として裁判員裁判制度の導入にも尽力している。安倍晋三内閣における日本国憲法改憲論議にも長く携わり、平成26年(2014年)には衆議院憲法審査会の会長に就任した。平成28年(2016年)には自民党憲法改正推進本部の部長に就任し、改憲に向けた自民党内の議論の主導役のひとりとなった。

平成29年(2017年)の第48回衆議院議員総選挙では、その前に膵臓癌が発覚したことから出馬せず、治療に専念するとして政界から引退した。

平成31年(2019年)4月19日午後6時44分、膵臓癌のため、東京都内の病院死去した。79歳没。