大平正芳
大平 正芳(おおひら まさよし、1910年〈明治32年〉3月12日 - 1980年〈昭和55年〉6月12日)は、日本の大蔵省の官僚であり政治家である。内閣総理大臣在任中のまま死去。位階正二位。
出生から大学時代まで[編集]
1910年(明治32年)3月12日に香川県三豊郡和田村(現在の観音寺市)に生まれた。両親は農家で大平利吉・サク。三男である。
和田村立大正尋常高等小学校(現在の観音寺市立豊浜小学校)を卒業して旧制三豊中学校(現在の香川県立観音寺第一高等学校)に進んだ。当時、中学校に進むものは少なかったが、裕福とは言えない中で父親の思いもあり進学した。
経済的な理由から一度は進学を断念して、就職していたが、奨学金を得て東京商科大学に進学した。1936年(昭和11年)3月、東京商科大学を卒業。
大蔵省時代[編集]
大学卒業後の1936年(昭和11年)4月に大蔵省に入省[1]。司税官・横浜税務署長(1937年〈昭和12年〉7月)、仙台税務監督局関税部長(1938年〈昭和13年〉6月)、興亜院事務官・蒙疆連絡部経済課主任(1939年〈昭和14年〉5月)、興亜院経済部第2課(1940年〈昭和15年〉10月)、興亜院調査官(1941年〈昭和16年〉12月)、大蔵事務官・主計局(1942年〈昭和17年〉7月)、外資局(1943年〈昭和18年〉8月)、東京財務局関税部長(1943年〈昭和18年〉11月)、大蔵大臣秘書官事務取扱(1945年〈昭和20年〉2月)、主計局(1945年〈昭和20年〉4月)、大蔵大臣秘書官(1945年〈昭和20年〉8月)、主計局(1945年〈昭和20年〉10月)、給与局第3課長(1946年〈昭和21年〉6月)、経済安定本部建設局公共事業課長(1948年〈昭和23年〉7月)、大蔵大臣秘書官事務取扱(1949年〈昭和24年〉6月)、国税庁関税部消費税課長兼大蔵大臣秘書官事務取扱(1950年〈昭和25年〉5月)、大蔵大臣秘書官事務取扱(1950年〈昭和25年〉8月)、1951年〈昭和26年〉8月から10月まで米国出張、大蔵大臣秘書官(1951年〈昭和26年〉11月)を歴任、1952年(昭和27年)9月に大蔵省を退職した[1]。
政治家[編集]
総理大臣就任まで[編集]
大蔵省を退職後の1952年(昭和27年)に10月に自由党公認で衆議院議員に立候補し2位で当選した[1]。自身が政治家となるきっかけを作った池田勇人の側近として活動した。以後、1960年(昭和35年)に第1次池田内閣で官房長官に就任、第2次池田内閣・第1次改造内閣まで官房長官を務めた。第2次池田再改造内閣で外務大臣に就任し、日韓関係の友好に努めた[1]。
次の佐藤政権では政調会長を務めた。第2次佐藤内閣の2度目の改造内閣で通商産業大臣、第1次・第2次田中内閣で再び外務大臣、第2次田中改造内閣・三木内閣で大蔵大臣を務めた[1]。
外務大臣時代には金大中事件の処理、日中関係の台湾からの脱却に当たった。
総理大臣[編集]
1978年(昭和53年)の自民党総裁選挙で総裁選に出馬し、勝利を収める。元々は、福田赳夫総理の後に、禅譲されるという密約があったとされるが、福田が総裁選に出馬したため、全面対決になったといわれる。事前調査では福田有利とも見られていたが、勝利して1978年(昭和53年)12月7日に第68代内閣総理大臣に就任することになった[1]。
しかし、消費税導入を唱えて1979年(昭和54年)の第35回衆議院議員総選挙に負けるなどして求心力が落ちた。40日戦争を経て第2次大平内閣が成立する。
1980年(昭和55年)3月7日、自民党の国民運動本部長の浜田幸一によるカジノ問題が発生し、これを機に野党や自民党の非主流派が反大平の声を高々と上げる。ただし野党側にも浜田問題に絡んでの不祥事があり、この問題は4月10日に浜田が離党届を出して議員辞職を行なったことから一応の決着をみた。
4月末から5月初旬にかけ、大平はアメリカ、メキシコ、カナダ3カ国を訪問する。カナダ訪問中にユーゴスラビアのチトー大統領が死去したため、5月8日に大平はスケジュールを変更してベオグラードで行なわれたチトーの国葬に出席した。その後、西ドイツを訪問して5月11日に大平は帰国した。
帰国した大平を待っていたのは内閣不信任決議の動向であった。当時は与野党が伯仲しており、与党の非主流派が10人余り欠席すれば不信任案は成立する状態であった。そのため大平や主流派は不信任案否決に向けて様々な手を打つ。野党は通常国会の会期末になると自民党に否決されることを前提に形式的な不信任案を提出するのが慣例化しており、5月14日の社会党委員長の飛鳥田一雄、公明党委員長の竹入義勝、民社党委員長の佐々木良作の三者協議により、不信任案提出の運びとなる。
自民党の非主流派は、自民党刷新連盟が内閣不信任案に同調する動きを見せる。これにより、内閣不信任案は5月16日に自民党非主流派の本会議欠席で、賛成が全野党の243、反対が自民党主流派による187で可決されてしまった。このため、大平は衆議院解散を断行し、史上初となる衆参同時選挙に打って出た。このときの衆議院解散はハプニング解散とも造反解散とも呼ばれる。この結果、第36回衆議院議員総選挙と第12回参議院議員通常選挙が同時に行われることになった。
急死[編集]
参議院選挙が公示された5月30日午前11時に自民党本部前で出陣式を済ませた大平は、広報車で新宿に向かう。しかし自民党本部でとった昼食はほとんどとらず、時間が来ると広報車で横浜に向かったが、次第に疲労感を見せ出したため、周囲から乗用車に移り休むように進められる。同日夜、大平は就寝中に息苦しさを訴え、医師から不整脈があるとして入院を勧められる。5月31日午前0時35分、次男の大平裕と娘婿で秘書官の森田一が付き添い大平は虎ノ門病院に入院する。この時は医師から軽い不整脈と過労で4、5日の入院が必要と診断されていた。
大平の入院の2日後、衆議院選挙が公示された。同日午前11時、精密検査を担当した医師団が大平の体調、病状に関しての所見を発表し、過労が引き金となった狭心症で、不整脈は軽い一過性のもので現在はなく食欲は良好、血圧は日常のものと大差なく、回復には1週間必要と述べた。
実は6月22日と6月23日には第6回先進7ヶ国首脳会議(ベネチアサミット)が予定されていたため大平が出席できるのかどうかが焦点になっており、中川一郎や河本敏夫らは大平が出席できないなら自ら進退を決すべきと述べるほどだった。
6月8日、官房長官の伊東正義の計らいで、記者団の代表3人と大平との会見を整えた。この会見は3分間に限られ、政治的な話題は避けて質問の要旨は事前に提出されていたものだった。
6月9日、医師団が大平の病状の2次発表を行なう。経過は順調だが2週間の入院加療が必要、ベネチアサミットには無理をすれば出席できるが、不整脈と狭心症の再発、心筋梗塞に発展する危険を伴うと発表した。
この頃になると自民党内部では主流派、非主流派を問わずに大平の進退に関して述べるようになり、大平の母体である大平派からも鈴木善幸が退陣やむなしと述べるほどで、大平は激怒して『浅薄な腹黒者め』と罵るほどであった。
6月11日午後7時30分、幹事長の桜内義雄から選挙に関する報告を受け、それが終わると伊東正義と話した。午後9時、娘婿の森田がベネチアサミットに関する報告をした際、大平はそうか、わかった、と述べたがこれが大平の最期の言葉になったという。
6月12日の午前5時、大平の容体が急変し、午前5時54分に遂に死去した。70歳没。死因は心筋梗塞を併発したことによる急性心不全であった。大平の最期を看取ったのは妻の大平茂子ら家族と伊東正義、自民党副幹事長の田中六助だった。
6月13日に前夜祭、6月14日には密葬が行われ、桐ヶ谷斎場で火葬に付された。7月5日には観音寺市民会館(香川県観音寺市)にて香川県観音寺市、豊浜町、三豊郡合同葬を、7月9日には日本武道館にて内閣・自由民主党合同葬を、7月13日には高松市民文化センター(香川県高松市)にて香川県民葬が営まれた。
大平の急死により、伊東正義が臨時首相代理となる。
大平の急死の結果、分裂含みだった自民党の結束が固まることになるという皮肉がもたらされる。結果、自民党は勝利した。これは、同情票が入ったからだという見方も強い。
書籍[編集]
著書[編集]
- 『財政つれづれ草』如水書房、1953年10月20日。
- 『素顔の代議士』20世紀社、1956年1月5日。
- 『春風秋雨』鹿島研究所出版会、1966年10月14日。
- 『旦暮芥考』鹿島研究所出版会、1970年8月15日。
- 『風塵雑租』鹿島研究所出版会、1977年12月20日。
- 『私の履歴書』日本経済新聞社、1978年7月10日。
共著[編集]
- 大平正芳・田中洋之助『複合力の時代』ライフ社、1978年9月6日。