阿尾城

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阿尾城(あおじょう)は、富山県氷見市阿尾字島尾にかつて存在した日本である。

概要[編集]

この城は3方向を海に囲まれ、ほとんど垂直の切り立った白い岩壁をそばだてて富山湾に突きだしている丘陵性の岬で、自然の要害を成していたと考えられている山城である。

沿革[編集]

戦国時代中期の永禄年間(1558年 - 1570年)に菊池武勝によって築城されたと考えられ、そのまま菊池氏居城とされた。菊池氏は九州肥後国守護大名である菊池氏の流れを汲み、越中国の守護である畠山氏に属していたが、後に上杉謙信の勢力が越中国に拡大して来るとその支配下に入った。天正6年(1578年)に謙信が急死すると、武勝は新たに越中に拡大してきた織田信長と結ぶ。信長没後は佐々成政の配下となり、成政と共に天正12年(1584年)に前田利家末森城を攻めた。だが、成政が形勢が不利になったことから上杉景勝と手を結んだため、武勝は成政を見限って前田利家に寝返り、天正13年(1585年)に前田利家と協力して成政に味方する神保氏張と氷見湊で戦った。同年、越中が豊臣秀吉越中征伐で平定されると、菊池氏はそのまま阿尾城主の地位が保障されている。

慶長元年(1596年)に阿尾城は前田利家の属城となり、江戸時代前期に江戸幕府が発令した一国一城令によって廃城とされた。

現状[編集]

現在、城跡には本丸と2の丸の跡が残り、本丸跡に白い灯台が建立され、富山県の史跡に指定されている。また、江戸時代中期の元禄年間の俳人路清による「草と木と、いづれかあほの、秋ちかし」の句碑が建立されている。

紺碧の海に白い岩肌を見せて乗り出している城跡の姿は訪れる人に強い印象を与えており、江戸時代末期(幕末)の安藤広重安政4年(1857年)に「諸国六十八景」に東尋坊と並べて版刻している。また旭江寛政12年(1800年)に「北陸奇勝」に阿尾城跡を描いている。

交通[編集]

周辺施設[編集]

その他[編集]

周辺には氷見市立阿尾小学校、阿尾郵便局があったが、閉鎖された。