北条貞顕
北条 貞顕(ほうじょう さだあき、弘安元年(1278年) - 元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日))は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門で鎌倉幕府第12代連署(在職:正和4年(1315年)7月11日(1315年8月11日 - 嘉暦元年3月16日(1326年4月19日))、第15代執権(在職:正中3年3月16日(1326年4月19日) - 正中3年3月26日(1326年4月29日))。父は金沢流の北条顕時。母は摂津の御家人である遠藤為俊の娘・入殿。金沢文庫で有名な北条実時の孫に当たる。金沢 貞顕(かねさわ さだあき)とも呼ばれる。兄弟姉妹に顕弁、顕実、時雄、顕景、名越時如室、千葉胤宗室、足利貞氏室(釈迦堂殿)ら。子に顕助、貞将、顕恵、貞冬、貞匡、貞高、貞助、道顕ら。
生涯[編集]
父は北条顕時であるが、この顕時が弘安8年(1285年)11月の霜月騒動で失脚の上に下総国に流罪にされたことから、貞顕は父親の庇護を失って幼少時代を過ごすことになる。霜月騒動で安達泰盛を滅ぼした平頼綱が永仁元年(1293年)4月の平禅門の乱で第9代執権・北条貞時によって滅ぼされると、顕時は流罪を許されて政界への復帰を許されて鎌倉に戻され、貞顕も同時に不遇の立場から脱することになる。
貞顕は顕時の長男ではなく、兄に同母兄の北条顕実らがいたのだが、なぜか顕時から世子に選ばれている。偏愛でも受けていたのか、何らかの事情があったのかは不明であるが、正安2年(1300年)の段階で従五位上に叙されていることから、早くから金沢北条家の世子に選ばれていた可能性が高い。正安3年(1301年)3月に父の顕時が死去したことにより、金沢北条家の当主に就任する。
乾元元年(1302年)7月に六波羅探題南方に任命された。貞顕は六波羅探題として実務をよくこなしたとされているが、実際は公家と友好関係を築いて多くの本を書写したり収集したりしているなど、文化活動をよく行なっていることが注目されている。延慶元年(1308年)12月に探題職を罷免されて鎌倉に帰るが、延慶3年(1310年)6月には六波羅探題北方として再度、京都に上洛している。この際の貞顕が出している書状では、六波羅探題に再任されることを忌避している内容が記されている。恐らくは当時、畿内で悪党や寺社の騒動、天皇家における持明院統と大覚寺統の対立に巻き込まれることを嫌ったのだと思われるが、特に問題を起こすことなく正和3年(1314年)11月まで探題職を務め上げている。
正和4年(1315年)7月、貞顕は連署に任命される。そして翌年に北条高時が第14代執権に就任すると、貞顕は高時を補佐する連署としての役割を10年間にわたって務めた。貞顕の立場は『円覚寺文書』において「御一族宿老」と見なされており、官位も従四位上修理大夫に昇っている。ただし、幕政の実権は内管領の長崎円喜とその息子の長崎高資、そして高時の岳父である安達時顕らが掌握していた。そのため、貞顕は連署としての指導力を発揮できずに10年間を過ごしている。『華頂要略』では高時政権下における見るべき政治は「若干の悪党対策が実行された程度」とされており、見るべき政策がほとんど他に無いとしている。このような中で後醍醐天皇によって正中の変と称される鎌倉幕府倒幕未遂事件も起こされているが、これは事前の密告などによって発覚して防ぐことはできた。しかし、後醍醐天皇に対して強い態度をとることができずに終わっており、この頃の幕府の中枢に有能な政治家が既にいなかったことをうかがわせている。
嘉暦元年(1326年)3月、第14代執権の高時は病気を理由に執権職からの引退と出家を宣言。ところが、高時は後継となる第15代執権を誰にするかを明確にしなかったので嘉暦の騒動と呼ばれる騒動に至った。高時には嫡子に北条邦時がいたが、この邦時はまだ生まれたばかりの幼児であってとても執権職をこなせるわけがない。そこで連署だった貞顕が長崎円喜に推挙される形で第15代執権に就任することになった。だが、貞顕の執権就任に対して邦時を推挙していた高時の外戚に当たる安達氏や高時の同母弟である北条泰家らは不満を抱き、貞顕を襲撃するという風聞まで流れ出した。もともと臆病なところもあった貞顕は、執権に就任してからわずか10日で辞任を宣言し、崇顕(すうけん)と号して出家した。後任の執権には北条守時が選ばれた。なお、貞顕の執権在職10日間は、言うまでもなく16代に及ぶ北条家の執権の中でも歴代最短記録である。
その後、金沢北条家の家督は嫡子の北条貞将に譲られていたようで、貞将は六波羅探題南方を務めたりするなど幕府の要職を歴任。貞顕は隠居として貞将に書状を送ったりして様々なアドバイスをしたりしている。また、後醍醐天皇の討幕運動がいよいよ激しくなると、貞顕の子である貞将や貞冬らが各地に転戦して討幕軍と戦っている。
元弘3年/正慶2年(1333年)5月22日、上野国の新田義貞が討幕軍を率いて鎌倉に侵攻してくると、貞顕の一族も鎌倉の防衛戦に多くが参加している(鎌倉の戦い)。しかし、新田義貞の侵攻に遂に敗れて、貞顕は得宗の北条高時に従って北条一門と共に菩提寺の東勝寺に移ると、ここで一門と共に自殺した。56歳没。
北条貞顕が登場する作品[編集]
- ドラマ
- 太平記 (NHK大河ドラマ) - 1991年、演:児玉清
関連項目[編集]
- 金沢文庫
- 延慶四年の内裏の事件
- 剱阿
- 称名寺 (金沢流北条氏の菩提寺)