近江日野城
近江日野城(おうみひのじょう)とは、現在の滋賀県蒲生郡日野町西大路に存在した日本の城である。蒲生氏郷の居城として有名である。別名、中野城(なかのじょう)ともいわれる。現在は日野川の北に残る平城跡である。
概要[編集]
近江の守護大名である六角定頼の家臣・蒲生定秀が天文3年(1534年)に築城したといわれている。蒲生氏は藤原秀郷の末裔として当地を支配していた。永禄6年(1563年)に六角氏で観音寺騒動が発生した際、定秀とその嫡子・賢秀は調停役を務め、六角義賢・義治父子の復帰に協力している。永禄11年(1568年)、美濃の織田信長による六角氏侵攻が始まると、主君の義賢・義治父子は観音寺城を放棄して逃走した。賢秀は信長に抵抗しようとしたが、伯母婿の神戸具盛の説得を受けて信長に降伏した。この際、賢秀の嫡男である氏郷(賦秀)は人質として信長に差し出されたが、信長は氏郷の器量を見抜いて大いに気に入り、自らの次女・冬姫を氏郷に嫁がせて娘婿とした。氏郷は信長の下で大いに戦功を立てたので、日野城への帰城を許されて蒲生氏の家督を相続した。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が明智光秀のために殺されると、氏郷は父・賢秀と共に安土城にあった信長の遺族を日野城に匿って籠城し、光秀から味方になるよう誘いを受けるが拒絶した。やがて光秀が羽柴秀吉に討たれると氏郷は秀吉の家臣となり、天正12年(1584年)に日野城6万石から伊勢松ヶ島城12万石に加増移封される。さらに天正18年(1590年)の奥羽仕置の後、秀吉の命令で陸奥会津城42万石に加増移封された。氏郷は会津に移る際、日野にいた多くの職人を会津に招聘し、会津漆器や蝋燭などの産業を興した。また、氏郷の時代に木地師が東北地方に多く移住しているが、これも氏郷が日野などから会津に招聘したのがきっかけであるという。
昭和41年(1966年)に日野川ダムが完成した際、日野城の遺構として残っていた土塁の大半が破壊されたが、現在も本丸跡や石垣、空堀の一部が残存し、鬼門には氏郷の頃からあったとされる稲荷社も残っている。