相応院 (蒲生氏郷正室)
相応院(そうおういん、? - 寛永18年5月9日(1641年6月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。織田信長の次女。蒲生氏郷の正室。
生涯[編集]
父は織田信長。母は不詳。
永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛した信長は、その際に六角義賢を滅ぼして六角家臣を降伏させたが、その際に人質として提出された蒲生賢秀の嫡子・氏郷(当時は賦秀)の器量を見抜き、永禄12年(1569年)冬に賦秀に次女を嫁がせた[1]。なお、『氏郷記』『蒲生氏郷記』ではこの時の相応院の年齢を12歳、あるいは9歳としており、逆算すると永禄4年(1561年)生まれか永禄元年(1558年)生まれとなる。
氏郷との間には嫡男の秀行、前田利家の次男・利政に嫁いだ娘が生まれている。氏郷は信長に仕えて活躍し、信長没後は豊臣秀吉に仕えて会津若松城を居城に大大名にまで栄進したが、文禄4年(1595年)2月に死去した。すると、秀吉はまだ30代の若さで美貌を保っていた相応院を自分の側室に迎えようとしたが、彼女はそれを拒否して髪をおろして尼となり、貞節を守ったという。しかし、秀吉はこれを深く怨み、氏郷の跡を継いだ秀行を会津から宇都宮に移封した上、石高も90万石から18万石に大減封させる報復をした。Wikipediaではこれを否定する話が取られているが、秀吉は丹羽長重などの例を見ても分かるように後継者の資質が余り見られない場合などは所領を減らしたり家臣を取り上げたりなど、様々な粛清をしていることから相応院に懸想することで理由づくりをした可能性がある。また、秀行が幼少で家臣団の間で争いが勃発しており、さらに氏郷の遺領問題で豊臣秀次と秀吉の間で齟齬が生まれており、秀次事件に巻き込まれたと考えることもできる。
相応院はその後も長生きするが、我が子の秀行は関ヶ原の戦い後に会津に復帰したものの慶長17年(1612年)に30歳の若さで死去。孫の忠郷が跡を継ぐが、その忠郷も寛永4年(1627年)に25歳で死去した。忠郷には嗣子が無かったため、江戸幕府は会津の所領を没収した。しかし、忠郷の母親が徳川家康の娘で秀忠の妹・振姫であったことから、特別の配慮で忠郷の弟・忠知に伊予松山20万石を与えて存続を許したものの、忠知も寛永11年(1634年)に継嗣無く死去し、蒲生家は断絶・改易となった。
夫も息子も孫も失った相応院は、その後も長生きして寛永18年(1641年)5月9日に死去した。享年は84、あるいは81で、信長の子女の中では高齢だった。
法名は相応院月涼心英。墓所は京都府京都市左京区の知恩寺瑞林院[2]。
なお、彼女の名は「冬姫」と言われていたが、氏郷に嫁いだ史料から「永禄12年冬」をそのまま「冬姫」と誤読した可能性が指摘されている。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 岡田正人 「女性人物辞典」 『織田信長総合事典』 雄山閣出版、1999年、169頁。 。