赤松真人

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Baseball Pitcher.jpg 赤松 真人 Baseball Batter.jpg
広島東洋カープ 二軍外野守備走塁コーチ #93
基本情報
国籍日本国旗.png日本
出身地京都府京都市伏見区
生年月日1982年9月6日(42歳)
身長
体重
182 cm
70 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手
プロ入り2004年 ドラフト6巡目
初出場2005年10月4日
最終出場2019年9月27日(引退試合)
Wikipedia-logo.png赤松真人
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 広島東洋カープ (2020 - )
  • 赤松 真人(あかまつ まさと、1982年9月6日 - )は、広島東洋カープに所属する京都府京都市伏見区出身の元プロ野球選手外野手)、コーチ。右投右打。既婚者。

    来歴[編集]

    京都府京都市出身。平成10年(1998年)に京都の平安高校龍谷大平安高)に入学し、自身が2年のの時に甲子園に出場して大会8強まで進出した。高校時代の赤松は遠投で130メートル、投手としては球速143キロと抜群の能力を持っており、それを見た監督原田英彦からは「超一流の選手になれる」と評価し、プロ野球から誘いもあったという。しかし赤松は一段と自身を成長させることを期して、平成13年(2001年)に立命大に進学し、自身が4年の時に関西学生リーグ春秋連覇に大いに貢献した。

    平成17年(2005年)にドラフト6巡目で阪神タイガースに入団する。俊足の中堅手、苗字に「赤」がつくなどの共通点から、阪神在籍時はポスト赤星憲広として活躍が期待されており、赤松本人も「赤星さんをライバル視させてもらっている」と発言していた。もっともそのプレースタイルは非力を技術とクレバーさで補う赤星とは対照的に、恵まれた身体能力からくる俊足強肩とパンチ力を前面に押し出すものであった。

    しかし、阪神では「自信が簡単にひねりつぶされた」と赤松は言う。赤松自身はバットを力強く振りたかったのに、球団からはその俊足を生かすためにゴロを打つことを求められたという。また、阪神時代はやや怪我が多い傾向があり、2006年春・2006年秋のキャンプには参加できなかった。二軍では毎年好成績を残すが、同タイプの赤星など外野の層が厚く、一軍では結果を残せていなかった。走塁のミスも多く[1]、岡田監督や阪神ファンからは「アホ松」とよく言われていた。そのため、阪神での3年間で赤松は活躍しなかった。転機が訪れたのは、阪神がフリーエージェントで獲得した新井貴浩の人的補償として、赤松が広島に請われたことであり、そのため平成20年(2008年)に広島東洋カープに移籍した。

    広島では首脳陣に自身の考えを伝えてそのやり方を貫いたとされ、そのためか阪神時代は3年間で36試合しか出場していなかったのに、広島では移籍1年目だけで125試合に出場している。平成21年(2009年)には規定打席に到達した。そして平成22年(2010年8月4日横浜ベイスターズとの試合で村田修一が放った大飛球を山森雅文を彷彿させる離れ業をやってのけ、米ヤフーのTODAYのコーナーで紹介された。広い球場で全速力でフェンスに登り、捕球までの時間的余裕もなかった事から、殿堂入りの声もあり[2]、米CBSは、山森のプレーを紹介しつつ、「日本の野球史上、もっとも衝撃的なキャッチだ」と報じ[3]、米デイリーニューズ紙では「スパイダーマン」と評した[4]

    同年にゴールデングラブ賞を初めて受賞することになった。とはいえこれ以前より守備には定評があり、俊足を生かした広い守備範囲を持ち、普通なら外野を抜けたり野手の間に落ちたりする打球も、追いついてアウトにすることもあった。福本豊は、2007年のテレビ番組「NANDA!?」の外野手特集にて、赤松の外野守備を現役日本人選手(大リーグに行ったイチローなども含む)でナンバーワンと評価した。福本はその理由として「赤星みたいにダイビングとかせずに、走って、きちんと落下点に着いてフライを取りに行くから」と述べた。2008年、2009年とレギュラーとして高い守備力で貢献したもののゴールデングラブ賞を逃したが、刺殺補殺をイニングで換算させて守備力をデータ化した統計では、2年連続で両リーグのゴールデングラブ常連の外野手を引き離した高い数値を表している[5][6]。2015年には新井がどの面下げて帰ってきたことで、奇しくも2人が同じチームでプレーするようになる。

    平成28年(2016年)には、その俊足から広島の代走の切り札として、25年ぶりとなる広島カープのリーグ優勝に大いに貢献している。ところが同年12月胃癌であることが判明した。それまでも人間ドックは受けていたが、妻の勧めで胃カメラをすることになり、癌がわかったのだという。このため平成29年(2017年1月には広島県広島市内で胃の半分の切除手術を受けた。しかし、リンパ節への転移が発覚し、医師からはステージ3、5年後の生存率は50パーセントであると診断されたという。半年後の7月に練習に復帰する。しかしその半年間で練習から離れていたこと、抗癌剤副作用などから既に選手として大いに活躍していた頃の体力などは失われていた。懸命にリハビリに励み、平成30年(2018年)には2軍戦に復帰して55試合に出場している。

    令和元年(2019年)にも選手として出場はしているが、やはり癌による筋力の低下、試合感覚の遠のき、それに若い世代の台頭もあって成績は低迷。一軍への復帰には至らず、9月7日には現役を引退することを発表した。この発表を受けて、球団では9月下旬にマツダスタジアムで組まれていた対中日戦を、赤松の引退試合として開催した。当初は9月22日に開催する予定[7]であったが、雨天で中止になったため、同月27日にレギュラーシーズンの最終戦として組み込まれた。赤松は、この試合の9回表から、「4番・中堅手」として、2016年10月1日の対ヤクルト戦以来1091日振りに一軍公式戦へ出場。守備や打席の機会はなかったものの、試合終了後の引退セレモニーで「最高の気持ち(チームのリーグ優勝)から一転して(胃がんが見付かったので)、本当にどん底に落とされました。『こんなにも好きな野球がもうできなくなるのか』と、正直何度も諦めかけました。(ファンの皆さんからの)応援は、(そんな自分にとって)絶大なパワーになりました。(胃がんの手術後に)一軍に上がれないまま、(今日が)引退試合になってしまってすみません」と述べた後に、チームメイトから5回にわたって胴上げされた[8]

    現役引退発表時の通算成績は867試合出場、打率は2割4分9厘、本塁打は21本、打点は144、盗塁は136であった。

    人物[編集]

    詳細情報[編集]

    表彰[編集]

    記録[編集]

    初記録
    その他の記録

    背番号[編集]

    • 52 (2005年 - 2007年)
    • 38 (2008年 - )

    関連情報[編集]

    著書[編集]

    • 赤松真人38。もう一度あの場所へ(2019年4月25日、ザメディアジョン)ISBN 978-4862506221

    関連書籍[編集]

    • カープの奥さま(2011年4月5日、ザメディアジョン)

    テレビ[編集]

    • 引退へ 勇気をありがとう! 〜広島カープ・赤松真人選手〜(2019年9月22日、NHK総合・広島)

    脚注[編集]

    注釈[編集]

    出典[編集]

    関連項目[編集]

    • 原口文仁 - 広島移籍後の2010年から阪神に在籍する捕手。2018年のシーズン終了後に受診した人間ドックで大腸癌が発見されたが、赤松と同じく患部の手術や治療を受けた後に、2019年6月に一軍復帰を果たした。原口が2019年1月に大腸癌の発見を公表した直後には、赤松が原口を激励するメッセージを送った。

    外部リンク[編集]