村田修一

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Baseball Pitcher.jpg 村田 修一 Baseball Batter.jpg
千葉ロッテマリーンズ 打撃コーチ #71
基本情報
国籍日本国旗.png日本
出身地福岡県糟屋郡篠栗町
生年月日1980年12月28日(43歳)
身長
体重
177 cm
92 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション三塁手一塁手二塁手[1]
プロ入り2002年 自由獲得枠
初出場NPB / 2003年3月28日
BCL / 2018年4月7日
最終出場NPB / 2017年10月1日
BCL / 2018年9月9日
Wikipedia-logo.png村田修一
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (2019 - 2022)
  • 千葉ロッテマリーンズ (2023 - )
  • 国際大会
    代表チーム日本国旗.png 日本
    五輪2008年
    WBC2009年

    村田 修一(むらた しゅういち、1980年12月28日 - )は、福岡県糟屋郡篠栗町出身の元プロ野球選手内野手)。右投右打。日本大学経済学部卒業。

    愛称は「男・村田」。

    概要[編集]

    東福岡高校ではエースピッチャー。日本大学では強打者として鳴らした。福岡ソフトバンクホークスに所属していた大野隆治とは高校、大学ともにチームメイトで高校時代はバッテリーを組んでいた(村田が捕手で大野が投手をやっていた時期もある)。

    2002年に横浜ベイスターズ自由獲得枠で入団。この頃「自分はお金で動くほどヤワな男ではないです」「だいたい自分は巨人が嫌いです」「僕は昔から原や中畑のことが大嫌いだった」と語っている[2]。村田には巨人からの指名話もあったが、下位指名であるために一番に獲得を表明した横浜を選んだ。これに対して日大野球部監督鈴木博識に「お金にこだわることも決して悪いことではないぞ」と言われた際に反論した。なおこれらの殊勝な発言は後々ネタにされることになる。

    2006年に多村仁の離脱後は5番を、4番を務めていた佐伯貴弘の不振によって6月1日の福岡ソフトバンクホークス戦(横浜スタジアム)でプロ初の4番に座ると、そのままシーズン最後まで4番の座を譲らなかった。後半戦だけで23本塁打を量産し本塁打王を獲得した2007年からは、名実ともにベイスターズの4番として長く君臨する。

    2012年に国内FA権を行使、なぜか横浜をボロクソに貶しながら読売ジャイアンツに移籍。この移籍時の言動や態度が裏目に出て、横浜ファンからは完全にヒール扱いされるようになる。2017年オフについに戦力外通告を受けた。2018年栃木ゴールデンブレーブスでプレーし、7月までのNPB現役復帰を目指したが、9月に現役復帰断念を決め引退会見をした。2019年から古巣巨人のコーチに就任。2020年には約半月間、二軍監督代行を務めた。

    プレースタイル[編集]

    やや小柄な体格ながらも右方向への長打が特徴的なパワーヒッターであり、2007年と2008年には本塁打王を獲得している。三振も横浜時代は毎年のように三桁三振を記録するなど多かったが、巨人移籍後は三振数は減少している。また長打に隠れがちであるもののバントも巧みである。ベース寄りのフォームな為死球が多いのも特徴。2013年シーズン中盤からはグリップの位置をやや下げるフォームとなっている。

    右方向へ長打を打つイメージとして村田は「右方向へ引っ張る」と形容しているが、本来右打ちの打者が引っ張って打つと形容する場合は、左方向へ打球を飛ばした際である。これは村田自身がバッティングの際に押し手(バッティングの際に手のひらがフェアゾーンに向いている手。右打者の場合は右手。)でボールを運ぶイメージを大事にしており、例え右方向であっても流さずに押し込んでいくために「右方向へ引っ張る」と形容している[3]

    2007年の後半戦から950~960グラムの重いバットを使用している。これは2007年は打率こそ安定していたが本塁打が前半戦終了時点で13本と伸び悩んでいたことからである。重いバットで軽く振りぬくことを心がければより飛距離が伸びるのではないかと本人いわく「安易な考え」で実行してみたところ、見事に効果が出て本塁打王のタイトルを獲得することができた。

    守備では主に三塁手として起用され、三塁線の強い打球に積極果敢に飛びつく俊敏さや、ファウルフライを追いかけ東京ドームの三塁側エキサイトシートに落下するなどのダイナミックなプレーを持ち合わせ3度のゴールデングラブ賞を獲得している。ハンドリングが上手く難しいバウンドの当たりを簡単に処理できるなど打撃よりも守備の貢献度(UZR)が高いと言われている。反面安易なゴロを落球するなど失策も多く、2004年からの10年連続をはじめ12回の二桁失策を記録している。

    巨漢の右打者で足があまり速く無いため併殺打が多く、盗塁もシーズン最高で3に留まっている。

    エピソード[編集]

    2005年5月28日の千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)、当時絶不調で9番まで打順を下げられていた村田は試合前に監督の牛島和彦から「9番の次の打順は何だ?」と聞かれ「1番です」と答えた。牛島は「アホか! 次は無いんじゃ!!」と一喝。この試合で決勝2点適時打を放った村田は、「生死を賭けて打ちました」とコメントし、牛島は試合後に「(これで打てるのなら)ずっと9番にしておこうかな」と褒めたという。なお、2013年6月12日の対オリックス・バファローズ戦で、この一件以来約8年ぶりとなる9番打者として出場した。この年はシーズン開幕直後は4割近い高打率を残すも、5月以降打率は急降下した。6月に入ると不振ぶりが顕著になり、試合途中での懲罰交代やスタメンから外されることが増え、6月9日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では8番にまで下げられていた。

    2007年10月4日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮)で、この試合が引退試合だった鈴木健横山道哉から打った13球目は、平凡な三塁邪飛だったが、村田はわざと捕球しなかった。結果、鈴木は中前安打を放って有終の美を飾った。多くのスポーツ紙では「粋なプレー」「村田の配慮」として村田に対する賛辞を送っている一方、「如何に引退試合とはいえ、そのプレー(飛球を捕らなかった)はあまりにも緩慢で(鈴木に対して)失礼」と、サンデーモーニング(同年10月7日放送分)で大沢啓二張本勲からはもとより、横浜ファンで政治評論家の浅井信雄からも批判された。この2日後、10月6日の対広島東洋カープ戦(広島市民球場)では、佐々岡真司の最終登板で佐々岡から本塁打を打っている。このような試合では、打者は三振するのが通例となっているため、村田は引退セレモニーで球場を一周した佐々岡を出迎えると真っ先に「すみませんでした。」と謝罪、試合後に「打って辛い本塁打は今日が初めて」と涙をこぼした[4]。しかし、佐々岡は村田の謝罪に対し「真剣勝負。打たれて吹っ切れた、気持ち良かったよ。」と笑顔で答え、村田の肩を叩いて激励した。結果的に、この本塁打によって、自身初の本塁打王のタイトルを単独で獲得。村田はシーズン後「佐々岡さんのためにも、カープファンのためにも、絶対タイトルを獲ってやると心に誓ってました」と、佐々岡との一件が転機だったことを語っている。

    北京オリンピックアジア予選を兼ねた第24回アジア野球選手権大会で優勝が決まる直前、村田はベンチの横にいた荒木雅博に「実は今まで胴上げに参加したことがなく、今後もチームじゃ優勝できなさそうだから、先にグラウンドに飛び出させて下さい」と懇願し、荒木はそれを譲ったものの、(未経験ゆえに)飛び出すタイミングを読み間違ってしまい4番目に飛び出す結果になってしまった(荒木が「サンデードラゴンズ」の企画で語ったものによる)。北京五輪では23打数2安打、打率0.087、五輪打率ランキングでは55/58位と精彩を欠いた。これは風邪で眼球の水分調節が狂い、一時的に眼の反応速度が鈍っていたためとされている}。五輪終了後、明らかに不調であった村田を使い続けた星野仙一五輪代表監督に批判が噴出した。

    巨人に入団してから、契約最終年だけ大活躍することも相まってやたらと「金にがめつい男」と呼ばれることが増える。巨人への移籍1年目の2012年は、打率.252、12本塁打、58打点に終わるも、契約最終年の2013年は打率.316、25本塁打、87打点の活躍で3年総額10億円の複数年契約を勝ちとった。2014年は打率.256、21本塁打、68打点に、22併殺打だった。2015年は打率.236、12本塁打、39打点。しかし契約最終年の2016年は打率.302、25本塁打、81打点。帳尻合わせは天下一品と評された[5]

    2014年、巨人がリーグ3連覇して迎えた阪神タイガースとのクライマックスシリーズファイナルステージでは第4戦に犠飛を放ちCS初打点を挙げるなど通算打率.357と好調だったがチーム全体の打撃が上向くことはなく、村田が犠飛で打点を挙げた同戦で敗れCS初の4連敗を喫し、3年連続での日本シリーズ進出を逃した。さらに村田はこの試合の最後の打者となってしまった(結果はセカンドフライ)。

    実況パワフルプロ野球がお気に入り。ただしゲーム中の自分の守備力が低いのが不満なようで、サクセスモード(選手作成モード)で守備力を高めにして作り直した。また、吉村裕基からゲーム内で守備の動きが鈍い村田に対し「動けデブ!」と言われショックを受けたこともある。この「動けデブ」から転じて生まれたのがなんでも実況J板など2ちゃんねるにおける村田の蔑称「ケデブ」「ウゴ・ケデブ」である。

    体を締め付けられる感覚が苦手なため、サイズにかなり余裕を持たせた、だぼだぼの大きなユニフォームを好んで着用する。2009年5月13日の対巨人戦では、9回裏一死満塁の場面で本来ならば体に当たるようなボールではない内角球がだぼだぼのユニフォームをかすり、サヨナラ死球を記録。ヒーローインタビューで「ユニフォームを大きめに作っておいてよかった」と苦笑した。

    ヒーローインタビューが特徴的。独特な口調(そーっすねー等)でしゃべるため、「村田節」と親しむファンが多い。通算100号ホームランを打った2007年4月10日のヒーローインタビューでバカリズムのギャグ・トツギーノを何故か突然発言。滑ってしまった。

    慈善活動等もしており、多額の金を寄付している[6]

    現存する全球団から本塁打を放っている。

      日付 対戦球団 球場 相手投手 通算本数
    1 2003年4月2日 巨人2回戦 東京ドーム 5回表 高橋尚成 1
    2 4月5日 中日2回戦 ナゴヤドーム 9回表 エディ・ギャラード 2
    3 4月11日 ヤクルト3回戦 横浜スタジアム 2回裏 戎信行 4
    4 4月23日 広島4回戦 広島市民球場 8回表 玉木重雄 7
    5 5月28日 阪神11回戦 阪神甲子園球場 7回表 谷中真二 13
    6 2005年5月13日 日本ハム1回戦 札幌ドーム 9回表 押本健彦 46
    7 5月28日 ロッテ5回戦 千葉マリンスタジアム 9回表 薮田安彦 48
    8 6月1日 楽天4回戦 横浜スタジアム 5回裏 矢野英司 49
    9 2006年5月19日 西武1回戦 横浜スタジアム 7回裏 松坂大輔 78
    10 5月28日 オリックス3回戦 スカイマークスタジアム 7回表 香月良太 79
    11 5月30日 ソフトバンク4回戦 草薙球場 2回裏 佐藤誠 80
    12 2012年8月4日 DeNA12回戦 横浜スタジアム 7回表 福田岳洋 258

    脚注[編集]

    1. Shuichi Murata Japanese Leagues Statistics & History”. Baseball-reference.com. 2017年7月16日確認。
    2. Sports network Japan ドラフト制度の舞台裏
    3. 高校野球ドットコム 第154回 読売巨人軍 村田修一選手” (2013年7月19日). 2015年7月16日確認。
    4. 本塁打となったのは、この打席での佐々岡はボールが先行し、3ボール1ストライクの状態で投じた球がボール球だったため、「フォアボールで現役を終わらせるのは忍びない」と村田が強振した結果である。
    5. 帳尻合わせは天下一品…巨人・村田“契約最終年”の大活躍 日刊ゲンダイ”. 日刊ゲンダイ. 2016年12月21日確認。
    6. 村田 「使命背負う」新生児医療支援さらに拡大へ”. スポーツニッポン (2013年12月29日). 2014年5月1日確認。

    関連項目[編集]

    外部リンク[編集]