西安
西安(せいあん、シーアン)とは、現在の中華人民共和国の華北地区の陝西省の省都である。渭河の中流南岸、標高400メートルに位置する都市である。人口は2000年の時点で240万人。中国の歴代王朝により首都に定められ、長安(ちょうあん)、常安(じょうあん)、大興府(だいこうふ)とたびたび名前を変えている。日本の奈良県奈良市、千葉県船橋市と姉妹都市提携を結んでいる。現在の都市名は「西方を安んずる地」を意味する。
概要[編集]
紀元前2205年に都市として建設され、紀元前1134年に西周により本格的な都城が築かれた。
紀元前202年に前漢を建国した高祖劉邦は当地を首都に定め、都市名を長安と名付けた。以後、前漢とその前漢から簒奪した新王朝の王莽は長安を首都としたが、新末期の争乱で長安は大いに荒廃し、後漢を建国した光武帝(劉秀)は首都を洛陽に変更する。
後漢末期に三国志の争乱が始まると、袁紹や孫堅、曹操ら諸侯の連合軍に洛陽を攻められた時の実力者である董卓は首都を洛陽から長安に変更する。長安は既に当時、軍事的な要衝として知られており、連合軍も長安までは攻め込めれなかった。しかし長安ではその後、董卓の専制と暗殺、董卓旧部下の内訌、後漢皇帝の脱走などで荒廃する。董卓の死後に政権を掌握した曹操により復興がなされ、後に蜀の諸葛亮が北伐を開始した際にも、曹操の孫の曹叡やその部下の司馬懿は長安を前線拠点にしてその侵攻を防ぎきった。
司馬懿の孫の司馬炎(武帝)が建国した西晋の時代には、八王の乱と永嘉の乱で西晋が異民族の匈奴に圧迫されると、首都を洛陽から長安に遷している。しかし西晋は匈奴に滅ぼされ、以後、五胡十六国時代において長安は異民族王朝の首都に定められ、名前もそのたびに変えられる運命をたどった。
五胡十六国時代から南北朝時代になってもこれは変わらず、南北朝時代を最終的に終焉させて中国を統一した隋の楊堅(文帝)は長安を首都に定め、名前を大興府と改めた。しかし隋も楊堅の息子の煬帝の時代に崩壊。618年に成立した唐の高祖李淵は長安を首都に定め、名前も元に戻した。
以後、唐の時代に中国の首都として長安は目覚ましい繁栄を遂げることになる。当時の記録では最盛期には東西9550メートル、南北8470メートルに及ぶ大規模な碁盤目状の都市が築かれていたとされ、日本の平城京や平安京なども長安を模範にして築かれていたほどである。また、日本から阿倍仲麻呂や空海(弘法大師)など、多くの遣隋使や遣唐使が訪れるなど、当時は世界一の文化水準を誇る都市として知られていた。しかし安史の乱を契機に唐が衰退し、長安も反乱軍により大いに荒らされた。そして唐の滅亡後は、長安は首都としての地位を失った。
1369年に都市名を西安と改称する。1928年には市に昇格した。1930年に西京と都市名が改称される。1936年に張学良や楊虎城による蒋介石監禁事件、いわゆる西安事件はここで発生した。1943年に都市名が西安に戻された。
中国の歴代王朝が首都を置いた経緯と、地理的にシルクロードの起点であるため、西安には遺跡や史跡が数多く存在し、1982年には中国六大古都のひとつとして歴史文化都市に指定された。また、史跡が多い関係から1956年には西安映画製作所が設置されている。1987年には西安北東36キロの地点にある秦の始皇帝陵が世界文化遺産に登録された。
1992年には内陸開放都市に指定された。中国西北航空の本拠地がある関係から、航空機製造などハイテク産業が伸長している都市でもある。