明智光忠
ナビゲーションに移動
検索に移動
明智 光忠(あけち みつただ、? ‐ 天正10年6月15日(1582年7月4日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。明智氏の一族で家臣。丹波国八上城主。
生涯[編集]
『系図簒要』『明智軍記』では諱は光忠で、父は明智光秀の叔父・明智光久とされ、さらに光秀の娘婿とされている。ただ、信頼性の高い史料からはこれらの関係はいずれも確認できない。通称は次右衛門(じえもん)。
『細川事記』では明智光秀が織田信長の命令で丹波国平定をした際に参加し、活躍したという。
『惟任謀反記』では天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変に参加し、本能寺攻撃の際に先鋒を務めた。また、光秀が本能寺を計画する際に相談を受けた老臣の1人とされている。しかし、本能寺襲撃の後、信長の嫡子・織田信忠が立て籠もる二条御所を攻撃した際に織田軍の激しい抵抗にあって重傷を負い、療養を余儀なくされる。そのため山崎の戦いなどその後の戦いには参加できず、光秀が羽柴秀吉に敗れて自害したことを知ると、自らも光秀に殉じたという。