一色義道
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一色 義道(いっしき よしみち、? - 天正7年(1579年)1月[1])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての丹後の守護大名・戦国大名。加佐郡建部山城主。父は一色義幸[1]。兄弟に昭辰、義清。子に満信。名に関しては義通とも表記されている[1]。官途は式部大夫・左京大夫[1]。
生涯[編集]
丹後の国主であり、永禄13年(1570年)1月に織田信長から上洛するように命令を受けている[1]。2月26日に一色七郎の謀反を信長に伝えると共に黄金10両を献上した[1]。4月14日、足利義昭の将軍屋敷完成の祝典に招かれ、能見物の席についている(『信長公記』)。ただしこの時点では信長の家臣ではなく、あくまで室町幕府の家臣としての動きと思われている[1]。
天正元年(1573年)に足利義昭が京都を追放されて室町幕府が実質的に滅亡すると、義道は信長に臣従した[1]。天正3年(1575年)4月26日に上洛して細川藤孝と共に信長に謁見している(『宣教卿記』)。8月の越前一向一揆討伐では信長に従い、丹後から船を出して出陣し、越前の各地を攻撃し、その功績により9月に信長から丹後支配の権利を認められた(『信長公記』)。
天正6年(1578年)9月、信長に従って和泉堺に赴き、九鬼喜隆の大船を見物した(『信長公記』)。しかしやがて信長と対立に転じ、信長は細川藤孝を丹後に侵攻させ、義道は細川藤孝と戦う[1]。しかし天正7年(1579年)1月に敗北して八田城から逃亡し、中山城の沼田幸兵衛を頼ったが、ここで沼田の裏切りにあって自殺した(『一色軍記』)。ただし『細川家譜』においては病死ともされており詳細は不明。
家督は嫡子の満信が継いだ[1]。