伏寿
伏 寿(ふく じゅ、? - 214年11月)は、後漢の第14代(最後)の皇帝・献帝(劉協)の皇后。通称は伏皇后(ふくこうごう)[1]。
生涯[編集]
徐州琅邪郡東武県(現在の山東省諸城市)の出身。前漢の伏湛の末裔。父は伏完。生母は盈(姓は不明)。嫡母は劉華(桓帝の娘の陽安公主)。兄は伏徳・伏典ら。
最初は貴人だったが、後に皇后に立てられる[1]。200年に董承・董貴妃らが曹操によって処刑された際、皇后は父の伏完に対して曹操討伐を望む手紙を送った[1]。209年に伏完は曹操に対して反乱を起こす事なくなり、214年になって皇后が伏完にそのような手紙を送っていたことが発覚し、曹操は華歆を宮中に派遣して皇后を捕縛しようとし、皇后は壁の中に隠れたが暴き出されて捕縛され、皇后を廃された上で幽閉され、間もなく死去したという[1](殺害されたかどうかは諸説がある)。
『曹瞞伝』によると、皇后が華歆によって捕縛された際、献帝は御史大夫の郗慮と会っていたが、そこへ髪をふり乱した伏寿が裸足のまま飛び込んできて「どうかお助け下さいませ」と叫んで献帝にすがり、「朕だって、いつまで命があるかわからないのだよ」と言って、郗慮に向かって「郗公よ。いったいこんなことが許されていいものか」と嘆いたという。伏寿はその場から引っ立てられて処刑され、伏一族数百人が連座により殺されたという(伏完もこの時に殺されたとある)。
献帝と皇后の間に生まれた2人の皇子も毒殺され[1]、一族もほとんどが殺された。新しい皇后には曹操の娘である曹節が立てられた。
『三国志演義』では父の伏完や穆順と共に曹操暗殺計画を画策するが、失敗して捕縛され棒叩きにより殴り殺され、伏一族も皆殺しにされた。後に曹操とその腹心である夏侯惇が死の床についた際、怨霊となって彼らを死に追いやっている[1]。