氏家行継
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氏家 行継(うじいえ ゆきつぐ、天文15年(1546年)? - ?)は、戦国時代の武将。稲葉一鉄・安藤守就と共に美濃三人衆の1人に数えられた氏家卜全の3男。諱は定元・直元・元政・広定と伝わるが、文書上では定元しか確認できない[1]。通称は源六[1]。受領名は志摩守[1]。兄に直昌、行広。子に元高、娘(細川興秋室のち飛鳥井持信室)。はじめ織田信長、次いで豊臣秀吉・秀頼に仕え、関ヶ原の戦いで西軍に属して改易された。
生涯[編集]
天正10年(1582年)、織田信長の武田征伐に参加して信濃に出陣した(『信長公記』)。本能寺の変で信長が死去すると兄と共に秀吉に接近し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは秀吉に与し、同年3月11日に美濃口に着陣している。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは豊臣秀次に従い参加する。秀吉の文禄の役では肥前名護屋城に在陣する(『太閤記』)。文禄3年(1594年)に伏見城不審に参加し、この間に伊勢において1万5000石の所領を与えられた(『当代記』)。慶長3年(1598年)に秀吉の形見として吉光の刀を拝領している(『太閤記』)。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に属して所領を失い改易され、細川忠興に身柄を預けられる。没年は関ヶ原後のわずか2か月後の11月とされているが(『美濃国諸家系譜』)、慶長9年(1604年)閏8月11日に出された細川忠興の書状に生存が確認できる形跡がある[1]。