氏家卜全
氏家 卜全(うじいえ ぼくぜん、永正9年(1512年)? - 元亀2年5月12日(1571年6月4日))は、戦国時代の武将。稲葉一鉄・安藤守就と共に美濃三人衆の1人に数えられている。美濃大垣城主[1]。斎藤道三・義龍・龍興の斎藤氏3代や織田信長に仕えた。諱は直元(なおもと)[1]。受領名は常陸介[1]。卜全は入道後の法号である[1]。史料上の名に桑原三河守がある[1]。子に直昌、行広、行継。
生涯[編集]
美濃三人衆の中でも氏家卜全は「同分限、氏家は少し大身也」とある(『美濃明細記』)。また、美濃国内で3分の1を支配する大身と書かれている(『耶蘇年報』)。このことから美濃国内でもかなりの勢力を誇る人物だったことがわかる[1]。ただし耶蘇年報には誇張の可能性もある[1]。なお、『耶蘇年報』では「Buquxen」と書かれている。
斎藤氏の時代には奉行6人衆(他は日比野清実・長井衛安・安藤守就・竹腰尚光・日比野弘就)の一人に数えられている。これらは義龍の時代には連署した書状の発給や美濃の内政を担当している重鎮である[1]。なお、桑原姓を氏家に改めて常陸介と称したのは永禄年間中期と見られている[1]。
永禄年間になると織田信長の美濃侵攻が激しくなり、氏家はしばらくは信長と交戦したものの、やがて稲葉や安藤と共に信長に降伏し、この際に入道して卜全と号した。永禄11年(1568年)に信長が足利義昭を擁して入京する際には従軍し、六角氏の簑作城を攻めるが、この際には新参の氏家ら美濃衆が先鋒にされるかと思われたのに信長が馬廻などで攻撃したという(『信長公記』)。このため、尾張衆と待遇上の差別はされていなかったと思われる。
永禄12年(1569年)に北畠具教の伊勢大河内城攻めに従軍し、元亀元年(1570年)に近江北部への出陣や姉川の戦いにも参加した(『信長公記』)。なお、氏家ら美濃三人衆は柴田勝家と軍事行動を共にすることが多かった[1]。
元亀2年(1571年)5月、伊勢長島一向一揆攻めに従軍するが、激しい抵抗にあって信長は撤退を決断し、殿軍に柴田勝家と氏家卜全を指名した。しかし一向衆の反撃にあい、氏家卜全は討ち死にした。享年59(『美濃国諸旧記』)。跡を長男の直昌(直通・直重)が継いだ[1]。