徳川継友
徳川 継友(とくがわ つぐとも、元禄5年2月8日(1692年3月25日) - 享保15年11月27日(1731年1月5日))は、尾張藩の第6代藩主(61万9500石)。
経歴[編集]
父は第3代藩主の徳川綱誠で11男[1]。母は側室の林金左衛門の娘・高倉(和泉)。養父は第5代藩主・徳川五郎太。第4代藩主の徳川吉通は異母兄にあたる。幼名は八三郎。正室は近衛家熙の娘・安己君(光雲院)。側室に右京(秋山氏・善良院)。官位は従三位権中納言。
名古屋で生まれる。父が元禄12年(1699年)に死去した時は異母兄の吉通がいたため、後継者になれることはなかった。宝永5年(1708年)1月に吉通の一字を受けて通顕と名乗り、松平通顕と称する。正徳元年(1711年)12月に従五位下大隅守に叙任される。正徳2年(1712年)12月に従四位下左近衛権少将に叙任される。正徳3年(1713年)10月に甥の五郎太が早世したため、通顕が江戸幕府の計らいで五郎太の養子に定められ、当時の第7代征夷大将軍・徳川家継の「継」を賜って継友と改名した。この際に従三位左近衛権中将に叙任される。また、藩主就任に伴い、五郎太の喪中であるにも関わらずに喜びの余り、家臣と共に祝宴を開いたりしている。
正徳4年(1714年)11月に中将を兼任する形で参議に任官する。正徳5年(1715年)12月に権中納言に叙任される。
正徳6年(1716年)4月に家継が8歳で重病に倒れて継嗣が不在のため、継嗣問題が発生すると、継友は紀伊藩主・徳川吉宗や水戸藩主・徳川綱條と共に次期将軍候補のひとりに挙げられる。年齢で言えば綱條、血筋で言うと徳川御三家筆頭格の継友であったが、継友は徳川氏の祖である家康から数えると玄孫で、吉宗と綱條は曾孫だったことから、1代差で血縁は紀伊・水戸両家のほうが近かった。さらに吉宗は紀伊藩の財政再建で辣腕を振るって評価されていたこともあり、第8代将軍には最終的に吉宗が指名されることになった。この際、異母弟の松平通温(宗春の兄)が将軍家後継争い敗北に憤慨し、言動が過激化したが、継友は通温を幽閉している。
享保3年(1718年)6月に近衛氏から安己君を迎えた。藩政においては物価騰貴、熱田の高潮、名古屋の大火、江戸市ヶ谷の藩邸類焼などによる藩財政悪化のため、再建に尽力する。また名古屋の発展に尽力し、周辺部の市内編入、行政機構の刷新に手がけた。他国から商人を迎えたりもして商業の奨励もした。
享保15年(1730年)11月、麻疹を患って江戸麹町藩邸で急死した。39歳没。これには一説に徳川吉宗による毒殺とする説もある。
実子に2男1女がいたが早世したため、陸奥梁川藩主だった異母弟の宗春が養子として家督相続した。
諡号は源曜公。法号は晃禪院殿博譽忍慈源曜大居士。墓所は愛知県名古屋市東区筒井の徳興山建中寺。
家系[編集]
徳川継友が登場する作品[編集]
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脚注[編集]
- ↑ 13男とも言われる。