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アッバース朝
アッバース朝(الدولة العباسية、英:Abbasid Caliphate)とは、かつて中東及び地中海東岸を支配したイスラム教スンナ派王朝である。
興隆[編集]
750年、アラブ人優遇政策をとるウマイヤ朝にを倒して成立した。全ムスリムの平等を掲げ、マワーリー(非アラブ人イスラム教徒)への人頭税を廃止したほか、イラン人の官僚を多数登用した。なお、シーア派とは初期は協力関係であったが、後に体制安定のため弾圧に転じた。
初代カリフアブー=アル=アッバースはタラス河畔の戦いで唐軍を破り、中央アジアでの影響力を拡大した[1]。また、2代目カリフマンスールの時代にはダマスクスに変わる新都バクダードの建造が始まった。5代目のハールーン・アッ=ラシードの時代にイスラーム文化が花開き、王朝は最盛期を迎えることとなる。
分裂・衰退[編集]
しかし、ラシードの死後、息子たちの間で跡目争いが起き、アッバース朝は次第に衰退し始める。宮中ではトルコ系奴隷軍人マムルークの発言力が高まり、既存のアラブ・ペルシア人貴族との対立が激化したため、カリフの急進力は次第に弱まっていった。また、広大な領土への統制が行き届かなくなり、9世紀後半から10世紀前半にかけてイベリア半島の後ウマイヤ朝、中央アジアのサーマーン朝、イランのサッファール朝、エジプトのファーティマ朝など各地の地方政権が独立した。
946年にはシーア派を奉じるイラン系のブワイフ朝がバグダードに入場し、これによりカリフは政治的権力をほぼ失った。
滅亡[編集]
その後もアッバース朝が勢いを取り戻すことはなく、キリスト教徒の十字軍に聖地イェルサレムを奪われた。13世紀には東のモンゴル帝国が台頭し、1258年、フレグ率いるモンゴル軍によってバグダードが攻め落とされ、アッバース朝は滅亡した。
なお、この時の破壊と略奪によってバグダードは廃墟と化しただけでなく、数万人が虐殺され、古代ギリシアの文献やイスラームの学術書が大量に失われた。その後、マムルーク朝支配下のカイロでアッバース朝の亡命政権が一応存続したが、1517年、オスマン帝国のセリム1世にカリフ継承権を譲渡し完全に滅んだ。
注釈[編集]
- ↑ なお、この戦いにより製紙法がイスラム圏に伝来した。