市川十郎右衛門尉

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市川 十郎右衛門尉(いちかわ じゅうろうえもんのじょう、? - 天正2年8月14日1574年8月30日))は、戦国時代武将甲斐武田家家臣

生涯[編集]

武田信玄に仕え、主に取次としての役目を果たしている。

永禄8年(1565年)、織田信長の家臣・和田新介宛信玄書状の使者を務めてから、織田氏との取次となった。また、信玄から内藤昌豊に対し、知行配分について市川と話し合うように命令が出されてもいる。

永禄12年(1569年)1月9日、駿河侵攻において信玄が大井川を越えて秋山虎泰遠江国に侵攻させて軋轢を生んだ件について、信長と交渉するように使者として派遣されている。さらに3月23日には京都にまで派遣されて、上杉輝虎との和睦、家康の動向、信長との交渉について取りまとめるように命じられている。その後、美濃国岐阜城に赴いて同地に滞在し、信長との交渉に努めた。この際に市川は信長より厚遇されたようで、信玄が12月23日に信長の家臣・佐々伊予守に出した書状でその間の厚遇を謝し、並びに駿河侵攻についての詳細を市川から聞いてほしい旨を伝えている。

元亀元年(1570年)4月下旬、再度信長の下に派遣されたが、同時期に近江国浅井長政が離反して近江国の通過が危険になったので甲斐国に帰還した。信玄は市川を再度、信長の下に派遣すると同時に信長の家臣・武井夕庵にその不手際を書状で6月に詫びている。

元亀3年(1572年)1月28日、信玄の使者として武井夕庵の下に派遣され、変わらぬ友好並びに前年に結ばれた甲相同盟について伝えている。元亀4年(1573年)、北条氏政の下に派遣されている。信玄の死後は武田勝頼に仕えた。

天正2年(1574年)8月14日に死去した。法名は月窓存心禅定門。跡を子の市川十郎左衛門が継いだが、彼は8年後の武田征伐で織田軍に処刑されている。

なお、後年に十郎右衛門尉の老母などによって高野山成慶院で追善供養が行なわれている。