武井夕庵

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武井 夕庵(たけい せきあん、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将斎藤氏、次いで織田氏家臣

生涯[編集]

受領名は肥後守。秀昌(ひでまさ)。後に入道して爾云と号した[1]

最初は美濃国を支配した斎藤道三、次いでその子・義龍、そしてその子・龍興と斎藤家3代に仕えた。ただ、武将としてではなく副状を発給する地位にあることから、右筆すなわち官僚として働いていた可能性が高い(『汾陽寺文書』『尊経閣文庫所蔵文書』)。ただ、永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦い直前に織田信長の命令で神文を書き、熱田神社に奉納したと伝えているものがあり、これが事実だと龍興には仕えていないことになる。これは誤伝とも見られるが明らかではない。夕庵の信長への仕官時期は永禄10年(1567年)9月の稲葉山城落城後と見られているが、これも定かではない[1]

信長に仕えてからも右筆としての地位を与えられており、一次史料で信長の右筆として文書を執筆したことが確認できるのは、永禄10年(1567年)11月9日付の正親町天皇綸旨女房奉書に対する12月5日付の大納言万里小路惟房宛の信長朱印状である(『熱田神宮文書』)。このことからも、信長に永禄3年(1560年)の時点で仕えていたとは考えにくい。

永禄11年(1568年)9月、信長が足利義昭を奉じて上洛すると、それに従って上洛して以後は信長の右筆、並びに奉行としての実務に当たり、京都の市制に関与した。武田信玄との書状もやり取りしている。信長からは奏者としての地位も与えられるなど、側近として列していたようで、天正3年(1575年)7月4日には二位法印に叙せられている。天正10年(1582年)5月19日、本能寺の変が起きる少し前に安土城で行われた徳川家康の饗応役を務めている[1]

信長没後は高齢もあってか、活動が明らかになっていない。Wikipediaでは天正13年(1585年)を最後に消息不明などと無責任なことが書かれているが、天正19年(1591年)の死亡説、あるいは文禄2年(1593年)の時点で史料に名が見える点から生存が確認されている[1]

人物像[編集]

信長に厚く信任されていたようである。信頼性に疑問もあるが、小瀬甫庵の『信長記』では以下のように記述がある。

  • 比叡山延暦寺の焼き討ち、越前一向一揆における虐殺などにおいて、古典を手にして信長の非を語り、君子の道を説いた。
  • 禁中での節分・礼楽を保護し、年中行事の大変さを信長に説いた。

同様に武井の信長に対する諫言が『当代記』にも記述されている。

  • 天正6年(1578年)10月、茶湯にのめりこんでいた信長に対し、「このままでは織田家中は武道が廃るでしょう」と諫言した。
  • 天正9年(1581年)の京都御馬揃えでは武井は70を超える老体で山姥装束で参加し、老女が騎馬しているようで信長や家臣たちを驚かせた。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d 岡田 1999, p. 268

参考文献[編集]