岩田聡
いわた さとる 岩田 聡 | |
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プロフィール | |
愛称 | いわっち |
出生地 | 日本・北海道札幌市 |
死没地 | 日本・京都府京都市 京都大学医学部附属病院 |
職業 | ゲームクリエイター プログラマ 実業家 |
勤務先 | HAL研究所(1993年-2000年) - 任天堂(2000年-2015年) |
配偶者 | あり |
活動 | |
デビュー作 | ピンボール |
岩田 聡(いわた さとる、1959年12月6日 - 2015年7月11日[1])は、日本のゲームクリエイター、プログラマ、実業家。HAL研究所代表取締役社長、任天堂取締役経営企画室長、任天堂代表取締役社長を歴任した。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
北海道札幌市出身。札幌市立真駒内中学校、北海道札幌南高等学校を経て、東京工業大学工学部情報工学科卒業。
岩田聡は1959年12月6日に生まれ、札幌で育った。[2]岩田は中学・高校を通じて、学級委員長、生徒会長、クラブ会長など、さまざまな場面で指導力を発揮していた[2]。プログラミングを始めたきっかけは、中学生時代に電話回線を使用したデモコンピューターだった。札幌地下鉄を頻繁に訪れ、「ゲーム31」と呼ばれる簡単な数値ゲームをマスターするまでプレイしていた。食器洗いの仕事で貯めたお金と父親からの手当で、高校時代に岩田はヒューレット・パッカード社のプログラム電卓を購入、北海道札幌南高等学校1975年4月、3年生から独自のゲームの開発を開始。岩田が制作した「バレーボール」や「ミサイルアタック」は、電子計算機を利用して作られたものである。[3]
HAL研究所時代[編集]
HAL研究所時代社員時代[編集]
大学在学中、池袋西武デパートのマイコン販売コーナーにて勤めていた店員が、HAL研究所の設立に関わることになり、店に通っていた岩田と学友は誘いを受けてアルバイトとして勤務[4]。そこで岩田はプログラミングに熱中し、1980年にHAL研究所に非常勤プログラマーとして入社。5人目にして唯一のプログラマとなった。 岩田の熱意とは裏腹に、家族は彼の進路を認めず、父親は岩田がHALに入社してから半年間、彼と話をすることはなかった。岩田聡君は、私が博士課程の学生だった頃、1981年に卒業研究で工学部情報工学科榎本肇研究室に配属され、当時同研究室では、画像処理、プログラミング言語などの研究を行った。[5]タブレッ岩田の熱意とは裏腹に、家族は彼の進路を認めず、父親は岩田がHALに入社してから半年間、彼と話をすることはなかった。入社2年目の時、任天堂から家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」が発売された。これに関心を持った岩田は、京都にある任天堂に出向き、仕事を請負するの申し出を行った。『ピンボール』や『ゴルフ』といったファミコンソフトを担当した。また、1985年1月に発売された『バルーンファイト』で、岩田はアーケードゲーム版よりも滑らかなキャラクターの動きを実現することに成功した。[4][6]岩田は、そのプログラミング能力の高さから、プログラマー仲間やゲームユーザーから高い評価を得ており、その情熱から、休日返上で仕事をすることもしばしばあったという。会社が倒産寸前の中、岩田は1993年に当時の任天堂社長である山内溥からの要望でHAL研究所社長に就任した。[7]任天堂の支援を受け、岩田は15億円の負債を抱えたHAL研究所を6年で立て直した。当時は任天堂には勤務していなかったが、1999年11月に発売されたゲームボーイ専用ソフトの『ポケットモンスター 金・銀』の開発に協力し、ゲーム内のグラフィックで使用する圧縮ツール群を作成した[8]。また、『ポケットモンスター 赤・緑』(以下『赤・緑』)の海外向けローカライズ作業。『赤・緑』の戦闘プログラムの『ポケモンスタジアム』への移植、更には『ポケットモンスター 金・銀』のグラフィック圧縮ツールの作成などプログラマとしての活躍を見せた[8]。
任天堂時代[編集]
任天堂取締役経営企画室長時代(2000年-2002年)[編集]
2000年6月、任天堂社長の山内溥に経営手腕を買われて任天堂に入社し、取締役経営企画室長に就任した[1]。
2001年5月に米国で行われた「E3 2001」では、同年9月14日に発売を控えていた新型の任天堂製ゲーム機「ニンテンドーゲームキューブ」に関するプレゼンテーションを行った[9]。『大乱闘スマッシュブラザーズDX』の開発が遅れ、発売予定の2001年11月までの完成が危ぶまれる事態に陥り、ハル研究所に出向き開発現場を指揮し、不具合を調べる作業のコードレビューやデバッグを行った。これがプログラマーとしての最後の仕事となった[10]。
2002年、42歳のときに山内から指名を受け、5月31日付けで任天堂の代表取締役社長に就任[1][11]。1889年の創業以来山内家の血縁関係を持たないものが社長になった。
任天堂社長時代(2002年-2015年)[編集]
社外出身で社内基盤が弱かったため、社長を補佐する集団指導体制が整備により、代表取締役の増員がなされた[12][13]。
職名 | 氏名 | 出身 |
---|---|---|
代表取締役会長 | 浅田篤 | シャープ |
代表取締役専務 | 竹田玄洋 | 任天堂 |
波多野信治 | ||
宮本茂 |
岩田は2003年の東京ゲームショウの基調講演では、「日本のゲーム市場では、ゲーム離れ現象が進行している」と、ゲーム市場の緊急性について強調した[14]。このスピーチで彼は業界の歴史を振り返り、家庭用ゲーム機への関心が低下していると締めくくった。日本市場における販売の低迷は1990年代末から2000年代初頭まで続いた。任天堂とソニーの競争の結果、ハードウェアは重くなっていたが、Nintendo 64は開発者にとってとても面倒なことであり、ソフトウエアはひどく苦しんだ。岩田の命令で1年間かけて行われた分析の結果、任天堂はハードウエアを押し出すことがビデオゲームを促進する最も有効な方法ではないとの結論を出し、ソフトに焦点を当てることにした2004年には、岩田による任天堂内部の大きな再編が行われた、山内溥社長時代に設けられたいくつかの部を統合するもの。その後、2005年に「ユーザー拡大プロジェクト」を立ち上げ、普段ゲーム開発には関わらない社員が新しいゲームのアイデアを出すようにした。[15]
ニンテンドーDS[編集]
岩田は新ゲーム機、ニンテンドーDSの開発に移行し、任天堂の携帯ゲーム機事業の活性化に貢献した。この機種には当時にしては画期的であるタッチスクリーンを搭載されており、斬新なゲームを可能にした。 1つの機種で2画面を使用するというアイデアは山内が退職前に提案し、宮本はタッチスクリーンを搭載するように助言した。その後は宮本がニンテンドーDSの開発を指揮した。ニンテンドーDSは累計までに1,879万台以上を売り上げ、ゲーム機史上2番目に売れたゲーム機になった[16]。その後のニンテンドーDSの後継機であるDS Lite、DSiも人気を博した。 [17]DS Liteは初代DSを改良し、消費者の要望に応じて明るい画面とスリムなデザインを特徴とした。 [18] 2006年3月に日本で発売、3ヶ月後に全世界で発売された[18]。統計では一家に一台DSが多いことがわかり、岩田は一家に一台を一人に広げることを目指した。 [17] 3代目となるDSiは、この考えを具現化したもので、「i」は一人を表している。DSとDS Liteによってビデオゲーム市場はすでに飽和しているという懸念があったが、岩田は特にヨーロッパ市場でDSiが売れることに確信を持っていた。 DSiはDS Liteの成功に基づき、同様に消費者の需要を満たすことで構築されたものである。
Wii[編集]
岩田、宮本、武田の3人で、新しい家庭用ゲーム機についての話し合いが始まったのは2003年前半。山内の後押しもあり、岩田は後にWiiとなる画期的な製品の開発を推し進めた。その後、岩田は「技術ロードマップから外れるように(武田に)言った」と、このプロジェクトを担当させた。「家族皆で、特にお母さんに好きになってほしい」「リビングルームで楽しんでほしい」といったコンセプトを元にWiiは開発された。[19]。 2006年11月19日には、リモコン型コントローラで操作する家庭用ゲーム機「Wii」を発売。このWiiでは本体を毎日起動してもらうことを目指し、天気やニュースなどのコンテンツを含む「Wiiチャンネル」が内蔵された[20]。また、歴代の任天堂ゲーム機で発売されたゲームソフトの一部をダウンロード購入してプレイできる仕組みである「バーチャルコンソール」も導入された。
新しく作られた企画[編集]
- 社長が訊く
- 当初は発売を間近に控えたWii本体や同時発売のWii用ソフトの開発者に話を聞く内容だった。その後、新作ソフトが出る際などに定期的に行われるようになり、他社のクリエイターを招いて話を訊くこともしばしばあった。[21]
- ニンテンドーダイレクト
ニンテンドー3DS[編集]
2011年2月26日、ニンテンドーDSの後継機「ニンテンドー3DS」を発売した。東日本大震災などの影響により10000円値下げし、普及が進んだものの、値下げによる逆ザヤ状態での販売が続き、2012年3月期の決算で通期営業赤字に陥った[24]。
NX(Nintendo Switch)[編集]
2015年3月17日、任天堂とDeNAの「資本・業務提携発表会」で、「全く新しいコンセプトのゲーム機」として「NX(開発コード名)」の開発を公表した「スマートデバイスでゲームビジネスを展開するのは、ゲーム専用機ビジネスへの情熱や展望を失ったのではない。スマートデバイスをどうやって活用するか決めたところで、今まで以上にゲーム専用機ビジネスに展望や情熱をもっている」としていて[25]、 任天堂はスマートフォン向けゲームに乗り換えるのではないかという誤解が世間で生じさせないようにする為、NXの存在が公表されたという[26]。
晩年[編集]
2014年6月5日、任天堂は岩田が健康上の問題からE3 2014に出席しないことを発表した。 岩田は6月24日に株主に対して、定期健康診断で見つかった胆管内の腫瘍を取り除くために前週に手術を受けたことを公表した。[27][28]。その後、同年8月に復帰[28]。10月の経営方針説明会で公の場に再び登場した[29]手術に成功しおよそ4ヶ月の回復期間を経て、10月に職場復帰を果たしている。この間、体重は著しく減少したが、結果的に健康になったと述べている。 岩田は11月5日のNintendo Directの発表で初めて公の場に登場したが、痩せた姿だった。これを受け、2015年6月に自身のMii(任天堂ハードで使用するアバター)をスリムになった自分を反映して更新している。2015年1月28日、岩田は高熱を出し、インフルエンザの疑いがあるとされ、それに伴い株主総会が延期された。 6月26日に別の株主総会に出席した後しばらくして、岩田は再び体調を崩し入院した。 入院中も岩田はベッドでノートパソコンを使って仕事を続け、ポケモンGOについて石原恒和にフィードバックした。 7月11日に55歳で死去した。任天堂は翌日、死去を発表した。[28]
作品[編集]
※岩田が任天堂社長になる以前に関わったゲームソフトのタイトルを記述する。
(Wikipediaより引用)
ゲーム機の略称
FC:ファミリーコンピュータ、FCD:ファミリーコンピュータ ディスクシステム、NES:Nintendo Entertainment System、SFC:スーパーファミコン、GB:ゲームボーイ、GBC:ゲームボーイカラー、N64:NINTENDO64、GC:ニンテンドーゲームキューブ
- ピンボール(1984年2月2日、FC、任天堂) - プログラマー(松岡聡と共同)
- ゴルフ(1984年5月1日、FC、任天堂) - プログラマー
- F1レース(1984年11月2日、FC、任天堂) - プログラマー
- バルーンファイト(1985年1月22日、FC、任天堂) - プログラマー
- ガルフォース(1986年11月19日、FCD、HAL研究所) - エグゼクティブプロデューサー、テクニカルコンサルタント
- エッガーランド(1987年1月29日、FCD、HAL研究所) - プロデューサー
- ゴルフJAPANコース(1987年2月21日、FCD、任天堂) - プログラマー
- ゴルフUSコース(1987年6月14日、FCD、任天堂) - プログラマー[30]
- エアー・フォートレス(1987年8月17日、FC、HAL研究所) - プロデューサー
- 殺意の階層 ソフトハウス連続殺人事件(1988年1月7日、FC、HAL研究所) - プロデューサー(武重有正と共同)
- ファミコングランプリII 3Dホットラリー(1988年4月14日、FC、任天堂) - プログラマー(共同)
- エッガーランド 迷宮の復活(1988年8月9日、FC、HAL研究所) - プロデューサー、ツールクリエイター(T. MUKAIと共同)
- エッガーランド 創造への旅立ち(1988年10月18日、FCD、HAL研究所) - プロデューサー
- ローラーボール(1988年12月20日、FC、HAL研究所) - プロデューサー
- Dragon Warrior(『ドラゴンクエスト』の海外版、1989年5月(北米)、NES、任天堂) - ローカライズ
- 御存知 弥次喜多珍道中(1989年11月7日、FC、HAL研究所) - プロデューサー(いけだみきお、武重有正と共同)
- 宇宙警備隊(1990年9月7日、FC、HAL研究所) - テクニカルスーパーバイザー
- NEWゴーストバスターズ2(1990年12月26日、FC、HAL研究所) - テクニカルスーパーバイザー
- メタルスレイダーグローリー(1991年8月30日、FC、HAL研究所) - プロデューサー、プログラマー(共同)[31]
- カードマスター リムサリアの封印(1992年3月27日、SFC、HAL研究所) - テクニカルアドバイザー
- 星のカービィ 夢の泉の物語(1993年3月23日、FC、任天堂) - プロデューサー(宮本茂、清水隆雄と共同)
- アルカエスト(1993年12月17日、SFC、スクウェア) - エグゼクティブプロデューサー
- ロロの大冒険(1994年3月25日、GB、イマジニア) - エグゼクティブプロデューサー
- MOTHER2 ギーグの逆襲(1994年8月27日、SFC、任天堂) - チーフプロデューサー、プログラムディレクター、プログラマー(共同)
- カービィボウル(1994年9月21日、SFC、任天堂) - プロデューサー(宮本茂と共同)
- 星のカービィ2(1995年3月21日、GB、任天堂) - プロデューサー(宮本茂と共同)
- 星のカービィ スーパーデラックス(1996年3月21日、SFC、任天堂) - プロデューサー(宮本茂と共同)
- 糸井重里のバス釣りNo.1(1997年2月21日、SFC、任天堂) - 製作(小関昭彦、大和聡と共同)
- カービィのきらきらきっず(1998年2月1日、SFC、任天堂) - チーフプロデューサー
- 星のカービィ3(1998年3月27日、SFC、任天堂) - チーフプロデューサー
- ポケモンスタジアム(1998年8月1日、N64、任天堂) - プロデューサー(宮本茂、三木研次、石原恒和と共同)
- Pokémon Red and Blue(『ポケットモンスター 赤・緑』の海外版、1998年9月28日(北米)、GB、任天堂) - ローカライズ
- ピカチュウげんきでちゅう(1998年12月12日、N64、任天堂) - スペシャルサンクス
- ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ(1999年1月21日、N64、任天堂) - プロデューサー(菅浩秋、三木研次、宮本茂と共同)
- ポケモンスナップ(1999年3月21日、N64、任天堂) - プロデューサー(三木研次、宮本茂と共同)
- ポケモンスタジアム2(1999年4月30日、N64、任天堂) - プロデューサー(三木研次、石原恒和、宮本茂と共同)
- ポケットモンスター 金・銀(1999年11月21日、GB/GBC、任天堂) - スペシャルサンクス(開発用ツールの作成
- カスタムロボ(1999年12月8日、N64、任天堂) - スペシャルサンクス
- 星のカービィ64(2000年3月24日、N64、任天堂) - スーパーバイザー
- 糸井重里のバス釣りNo.1 決定版!(2000年3月31日、N64、任天堂) - プロデューサー(小関昭彦、三木研次と共同)
- MOTHER3 豚王の最期(開発中止、N64、任天堂) - プロデューサー(宮本茂と共同)[32]
- コロコロカービィ(2000年8月23日、GBC、任天堂) - スペシャルサンクス
- メタルスレイダーグローリー ディレクターズカット(2000年11月29日、SFC(ニンテンドーパワー)、任天堂) - スペシャルサンクス
- ポケットモンスター クリスタルバージョン(2000年12月14日、GBC、任天堂) - プロデューサー(大和聡、宮本茂、石原恒和と共同)
- ポケモンスタジアム金銀(2000年12月14日、N64、任天堂) - プロデューサー(三木研次、石原恒和、宮本茂と共同)
- 大乱闘スマッシュブラザーズDX(2001年11月21日、GC、任天堂) - スペシャルサンクス(コードレビュー、デバッグ)
- ポケモンパーティミニ(2001年12月14日、ポケモンミニ 、株式会社ポケモン) - プロデューサー(大和聡と共同)
- ポケモンピンボールミニ(2001年12月14日、ポケモンミニ、株式会社ポケモン) - プロデューサー(大和聡と共同)
- ポケモンショックテトリス(2002年3月21日、ポケモンミニ、株式会社ポケモン) - プロデューサー(大和聡と共同)
関連項目[編集]
脚注[編集]
- 出典
- ↑ a b c “代表取締役社長の逝去および異動に関するお知らせ(訃報)(PDF)”. 任天堂 (20150713). 2015年7月13日確認。
- ↑ a b Martens, Todd (2015年7月12日). “Nintendo's Satoru Iwata dies at 55; under him, Wii created hordes of new gamers”. Los Angeles Times 2015年7月12日閲覧。
- ↑ “社長に学べ! NINTENDO社長 岩田聡さん (→4)”. ほぼ日刊イトイ新聞 (2005年3月4日). 2016年10月6日確認。
- ↑ a b “社長に学べ! NINTENDO社長 岩田聡さん (→5)”. ほぼ日刊イトイ新聞 (2005年3月7日). 2016年10月6日確認。
- ↑ https://www.titech.ac.jp/news/2015/031926”. 岩田聡氏を悼んで|東工大ニュース|東京工業大学
- ↑ “社長が訊く『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』”. 任天堂 (2009年7月3日). 2014年1月31日確認。
- ↑ “社長に学べ! NINTENDO社長 岩田聡さん (→1)”. ほぼ日刊イトイ新聞 (20050301). 2016-10-確認。
- ↑ a b “社長が訊く『ポケットモンスター ハートゴールド・ソウルシルバー』”. 任天堂 (2009年9月4日). 2014年1月31日確認。
- ↑ “Electronic Entertainment Expo 2001現地レポート”. GAME Watch (2001年5月17日). 2016年10月6日確認。
- ↑ “任天堂・岩田氏をゲストに送る「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」最終回――経営とは「コトとヒト」の両方について考える「最適化ゲーム」 (2/5)”. 4Gamer.net (2014年12月27日). 2014年12月27日確認。
- ↑ Stack, Liam (2015年7月13日). New York Times. https://www.nytimes.com/2015/07/13/business/satoru-iwata-nintendo-chief-executive-dies-at-55. html
- ↑ 代表取締役の異動について 2002年5月24日任天堂株式会社
- ↑ 任天堂ファミコン30年 中年「マリオ」再び跳べるか 脱・集団指導体制、岩田流でスピード経営 2013/7/15 7:00日本経済新聞
- ↑ “Wii Preview 社長プレゼン全文”. 任天堂. 2016年10月6日確認。
- ↑ Boxer, Steve (2015年7月14日). “Satoru Iwata obituary”. The Guardian 2015年7月14日閲覧。
- ↑ “任天堂株式会社 連結販売実績数量の推移”. 任天堂 (2016年12月). 2021年8月2日確認。
- ↑ a b Iwata, Satoru (2008年10月31日). “archive.org/web/20160215054442/https://www.nintendo.co.jp/ir/en/library/events/081031/06.html 経営方針説明会/中間決算説明会”. Nintendo. p. 6. 2月15日2016時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月3日確認。
- ↑ a b Rojas, Peter (2006年2月20日). “com/2006/02/20/the-engadget-interview-reggie-fils-aime-executive-vice-preside/ The Engadget Interview: Reggie Fils-Aime, Executive Vice President of Sales and Marketing for Nintendo”. Engadget. AOL. 2017年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月11日確認。
- ↑ [1].岩田さんはWiiに自分の存在理由をかけた
- ↑ “社長が訊く Wiiプロジェクト - Vol.3 Wiiチャンネル編”. 任天堂 (2006年9月14日). 2016年10月6日確認。
- ↑ “社長が訊く リンク集”. 任天堂. 2016年10月6日確認。
- ↑ “会社情報:Nintendo Direct リンク集”. 任天堂. 2014年10月11日確認。
- ↑ “2012年10月25日(木)第2四半期決算説明会 質疑応答”. 任天堂 (2012年10月25日). 2014年10月11日確認。
- ↑ “2012年3月期 決算説明会 決算概要説明” (2012年4月27日). 2016年10月6日確認。
- ↑ “任天堂、新ゲーム機プラットフォーム「NX」来年発表へ 「専用機への情熱失っていない」”. ITmedia NEWS. 2021年1月30日確認。
- ↑ 2015年3月期 決算説明会 質疑応答
- ↑ “株主の皆様へ” (2014年6月24日). 2015年2月17日確認。
- ↑ a b c 任天堂の岩田聡社長が死去 55歳、胆管腫瘍で WiiやDS開発を先導 - 産経ニュース 2015年7月13日
- ↑ 岩田社長が復活、任天堂の成長シナリオは? - 東洋経済ONLINE 2014年11月2日
- ↑ “社長が訊く『PUNCH-OUT!!』 (4/6)”. 任天堂 (2009年7月13日). 2016年11月18日確認。
- ↑ 『ユーズド・ゲームズ総集編3 1998 Vol.9〜1999 Vol.12』(キルタイムコミュニケーション)168~175頁記載のインタビュー記事「任天堂を支えたプログラマー 岩田聡」より。
- ↑ “『MOTHER 3』の開発が中止になったことについての糸井重里・岩田聡・宮本茂の座談会 その1”. ほぼ日刊イトイ新聞 (2000年8月22日). 2017年4月14日確認。