岩国藩

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岩国藩(いわくにはん)とは、江戸時代から明治時代初期まで周防国に存在したである。ただし、正式に藩として認められたのは明治元年(1868年)の明治政府による取り立て(維新立藩)によるものであり、藩としての期間はわずか3年ほどであった。藩主家が吉川氏であったことから吉川藩(きっかわはん)とも称される。長州藩支藩的存在であった。現在の山口県岩国市に存在した。

概要[編集]

藩祖は毛利元就の次男・吉川元春の3男・広家である。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、広家は徳川家康と通謀して本家である毛利輝元の所領安堵を図り、関ヶ原本戦で毛利秀元を足止めするなど妨害行為をして東軍の勝利に裏から大きく貢献した。しかし家康は戦後、毛利輝元が西軍の総大将として各地に書状を発していたこと、四国などに軍を差し向けて東軍方の城を攻撃したことなどを咎め、毛利輝元の所領を没収して改易し、広家に周防国・長門国を与えて毛利家の家督を継がせようとした。広家はこれを辞退し、その所領を輝元に与えることを望み、井伊直政の仲介もあって家康はこれを認め、輝元は周防国・長門国に減封移封となって取り潰しは免れた(長州藩)。

輝元ら毛利宗家は広家の通謀行為を恨み、輝元は家康の命令で広家に周防国玖珂郡に3万石を分与したが[1]、決して吉川家を大名として認めずあくまで毛利家の家臣であると主張した。これに対して家康や江戸幕府はあくまで吉川家を大名として扱い、ここに両者で全く扱いが異なる異例の状態がこのまま江戸時代を通じて265年も続くということになった[2]

慶長8年(1603年)、広家は岩国横山に岩国城を築城してここを居城とした。しかし、元和元年(1615年)に家康が一国一城令を発令すると、岩国城を破却せざるを得なくなり、山麓に陣屋を築いてここを拠点とした。なお、藩として認められてはいなかったものの、徳山藩長府藩のように自治は認められていた。

広家の死後、第2代当主となった広正は寛永17年(1640年)に紙の専売制度を制定した。第3代当主・広嘉は延宝元年(1673年)に有名な錦帯橋を設置している。さらに延宝5年(1677年)に銀札を発行した。第4代当主・広紀は領内各所で吉川家直営による干拓事業を行なった。

第6代当主・経永の時代である享保2年(1717年)、年貢減免を求める大規模な百姓一揆が起こったり、さらに家老の吉川外記による家格上昇運動[3]のために江戸城大奥に巨額の賄賂を送っていたことが発覚し、これが元文3年(1738年)に岩国領未曽有の大スキャンダル事件に発展して吉川家に多額の負債と汚点だけが残る結果になった。これらの事情から、延享4年(1747年)に経永は岩国で初となる家中の半知上納を命じたり、産業育成に努めて何とか再建を図るも失敗。第7代当主・経倫の明和3年(1766年)に幕府から木曽川修築の手伝い普請を命じられて財政危機が濃厚になった。

第8代当主・経忠は宮庄主水を登用して財政改革を行うが失敗する。第10代当主・経礼は藩の借金を強権を発して整理したり、塩浜の開発、産業育成に努めて財政改革に成功した。第12代当主・経幹は弘化4年(1847年)に藩校となる養老館を開いて文教政策に尽力し、また干拓地の増加にも励んで財政改革にも努めた。幕末になると、宗家の長州藩の吉川家に対する怨みも随分和らいでおり、また宗家が幕府との対立上から吉川家との和解を望んでおり、安政3年(1856年)に経幹は長州藩主・毛利敬親(当時は慶親)に招かれて大いに歓待を受けた。経幹も宗家との和解を望んでおり、この時点では藩としてはなおも認められはしなかったものの、以後経幹は長州藩と幕府の仲介的な存在として活動することになった。

後に第2次長州征伐が起きると、経幹は長州藩を助けて幕府軍の撃退に貢献した。経幹は慶応3年(1867年)に没したが、幕末の多難な中でその死が影響を与えることを恐れた敬親によって死が秘匿され、存命として扱われた。そして、経幹は存命しているものとして慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いの後の京都守備、さらに戊辰戦争における北越出兵などが行なわれた。幕末のこれらの功績により、明治政府は遂に吉川家の悲願であった藩としての認可を与え、経幹は「既に死んでいるにも関わらず藩主として初めて認められた」という異例の存在となった。最初から最後まで岩国藩は異例の状態で続いてきたと言える藩だった。

間もなく、長州藩は経幹の喪を公表し、第2代藩主(第13代当主)にはその遺児である経健が就任した。明治4年(1871年)7月の廃藩置県によって、岩国藩は消滅した。

歴代当主・藩主[編集]

吉川家(外様)

3万石 → 6万石

  1. 広家
  2. 広正
  3. 広嘉
  4. 広紀
  5. 広逵
  6. 経永
  7. 経倫
  8. 経忠
  9. 経賢
  10. 経礼
  11. 経章
  12. 初代藩主 経幹
  13. 2代藩主 経健

岩国藩の人物[編集]

幕末の領地[編集]

脚注[編集]

  1. 3万石は表高であり、寛永検地では6万石となっている。
  2. 江戸幕府はやむなく吉川家を諸侯(大名)に準じた待遇とした。これに対して毛利家では「岩国藩」ではなく「岩国領」と称して決して藩とは認めなかった。
  3. 江戸幕府に藩として昇格するように認めることを求める運動。