山本山城

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山本山城(やまもとやまじょう)は、近江東浅井郡滋賀県東浅井郡湖北町山本)に存在した日本山城である。別名を阿閉城(あつじじょう)という。規模は標高325メートル。比高は235メートル。

概要[編集]

この城は平安時代末期の治承4年(1180年12月には既に築城されていたようであり、12月16日山本義経が本拠としていたが、そこに平知盛平資盛率いる平氏軍が攻撃したという(『玉葉』)。

その後、京極氏家臣であった阿閉氏の居城となる[1]。京極氏に対して浅井亮政下克上を起こした際、尾上城浅見対馬守が対抗して籠城したこともあった[1]。この城は琵琶湖の東岸に沿って賤ヶ岳から南へ伸びる山系の南端部に位置し、山麓を余呉川がめぐっている。そのため浅井氏の居城・小谷城支城として重要な地位を占めた[1]。『信長公記』によると、浅井長政朝倉義景と連合して織田信長と敵対した祭、元亀3年(1572年)に山本山城主であった阿閉貞征は当時木下藤吉郎と名乗っていた豊臣秀吉に敗れて放火され、天正元年(1573年8月に織田信長に寝返った。

その後、阿閉貞征は織田信長の家臣として仕えるものの、天正10年(1582年6月本能寺の変で信長が明智光秀のために横死すると、貞征は明智光秀に味方した[2]。このため、山崎の戦いで明智光秀が秀吉に敗れて滅ぶと、秀吉の追求を受けて殺害され、山本山城は廃城となった[2]。現在は山頂に本丸跡、二の丸、馬場などの遺構が伝わっている[1][2]

脚注[編集]

  1. a b c d 『日本城郭大系、第11巻』(新人物往来社1980年)、P233
  2. a b c 『日本城郭大系、第11巻』(新人物往来社1980年)、P234

参考文献[編集]