堀親良
堀 親良 ほり ちかよし | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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堀 親良(ほり ちかよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期の大名。堀秀政の次男。越後蔵王堂藩の初代藩主、下野真岡藩主、下野烏山藩の初代藩主である[1]。
生涯[編集]
父は織田信長の家臣だった堀秀政で次男。長兄に堀秀治がいる[2]。仮名は孫太郎。
父や兄と共に羽柴秀吉に仕え、天正18年(1590年)の小田原征伐に父兄と共に従軍した。この征伐の最中に父が死去したため、堀氏の家督は秀治が継承し、越前国に兄とは別に2万石が与えられて大名となった。天正19年(1591年)、豊臣秀吉の偏諱を受けて最初は「秀家」と名乗る[2]。なお、天正18年11月4日付の書状では既に羽柴姓を称していたことがわかっている[3]。天正20年(1592年)の秀吉の朝鮮出兵では、肥前国名護屋城に在陣し、この際には受領名として美作守を称していた[4]。なお、年未詳だが秀家から「秀成」と改名している。ただし、父や兄と違って公家成はしていない。黒田基樹は公家成もしていないのに羽柴姓を許されているのは、秀治とは別に秀吉の直臣に取り立てられたからではないか、としている[4]。
慶長3年(1598年)、上杉景勝が秀吉の命令で会津若松に移封されると、兄や他の一族とともに越後国に移封され、秀家には蔵王堂3万石(現在の新潟県長岡市)が与えられた。同年の秀吉の死後は徳川家康に接近する[2]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、景勝が扇動して引き起こされた上杉遺民一揆の鎮圧に努めた。そのため、東軍に属していたとして戦後は所領安堵される[2]。
慶長7年(1602年)、父の従兄で秀治の家老だった堀直政との対立により、所領を放棄して隠遁する。このため、蔵王堂城主は養子で甥の鶴千代が継承することになった。その後、徳川秀忠の家臣となり、下野国真岡藩主(現在の栃木県真岡市)として1万2000石を与えられた。なお、堀氏は秀治の死後、甥の忠俊が継承するも、直政の死後に御家騒動が起きて改易されているが、既に越後から離れていた秀家には連座は適用されなかった[2]。
大坂の陣では徳川方として活躍し、この後に名を「親良」としている[5]。最終的には下野国烏山藩2万5000石(現在の栃木県烏山市)2万5000石に加増移封されている。寛永14年(1637年)5月13日に58歳で死去し、家督は子の親昌が継承した[2]。
系譜[編集]
父母
正室
- 養梅院 - 浅野長政の娘
側室
- 近藤氏
- 若山氏
- 奥村氏
子女
養子
脚注[編集]
注[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]