北条茂時

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北条 茂時(ほうじょう もちとき、嘉元元年(1303年)? - 正慶2年/元弘3年5月22日1333年7月4日))は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。鎌倉幕府の第14代、最後の連署である。父は政村流で鎌倉幕府の第12代執権北条煕時。母は第9代執権・北条貞時の娘。弟に貞煕胤時時敏煕助

生涯[編集]

高祖父が第7代執権の北条政村。曾祖父は第9代連署の北条時村である。母方は第9代執権の北条貞時の孫で、第14代執権・北条高時の甥に当たるという得宗家に近い血筋の持ち主であった。

嘉暦元年(1326年)9月に右馬権頭に任官する。なお諱の茂時はよく「しげとき」と言われていたが、これは「もちとき」である。江戸幕府の第14代征夷大将軍徳川家茂も「もち」と読んでいるし、実は建武政権の時の史料だが、その中で「関東当国司右馬権頭持時」と書かれているものがある。これは茂時のことを指すと見られており、「茂」と同音の言いかえで「持」の字を使ったものと考えられる。

嘉暦元年(1326年)3月、嘉暦の騒動で第15代執権・北条貞顕がわずか10日で執権職を辞任。その後継として4月に北条守時が就任して第16代執権となり、連署には北条雑貞が就任した。茂時は5月に引付頭人の1番になり、序列の上では幕府のナンバー3となる。

嘉暦2年(1327年)9月に連署の雑貞が病死し、その後3年近く連署は空席となるが、元徳2年(1330年)7月になって茂時が連署に任命された。ただ、茂時がどのような性格の持ち主であったのか残された史料から読み取ることがほとんどできない。当時の鎌倉幕府は長崎円喜安達時顕の両頭の権力者の下で寄合で決定されていたことから、まだ30歳にもならない茂時に彼らに何らかの主導的な行動をとること自体、不可能だったと考えられる。

正慶2年/元弘3年(1333年)5月22日、新田義貞が鎌倉を攻めた際、茂時は得宗の北条高時以下、一族や幕府の要人などが立て籠もった東勝寺において自害したという(『将軍執権次第』元弘3年条)。享年は30歳くらいであった。『太平記』では東勝寺で自刃した者の中に「南部右馬頭茂時」という名があり、これが茂時のことだと推測されているのだが、なぜ南部という姓にされて記録されているのかは不明である。

墓所は神奈川県藤沢市清浄光寺にあるが、ここでも「南部右馬頭茂時」とあり、これが茂時の墓と推定されている。

茂時の事績として、連署就任から鎌倉幕府滅亡までの3年弱の間に、執権の守時と共に将軍の守邦親王の意を奉じて発給した関東御教書関東下知状などが存在しているが、その中に新田義貞ゆかりの上野国長楽寺(現在の群馬県太田市)に平塚郷(現在の群馬県伊勢崎市)を寄進した関東御教書があり、それが出された日付がよりによって新田義貞が鎌倉幕府を討幕するために挙兵した正慶2年/元弘3年(1333年)5月8日であるという皮肉な事態になっている(『長楽寺文書』)。