内藤昌月
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内藤 昌月(ないとう まさあき、天文19年(1550年[1] - 天正16年5月25日[1])(1588年6月18日))は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣で内藤昌秀の養子[1]。後に北条家の家臣。
生涯[編集]
父は保科正俊で3男[1]。母は小河内美作守の娘[1]。兄に保科正直。子に直矩、信矩。
幼名は千次郎[1]。官途は修理亮[1]。受領名は大和守[1]。天正3年(1575年)に内藤昌秀の養子となり、同年5月に長篠の戦いで昌秀が戦死したため、家督を相続した[1]。武田勝頼の側近として天正7年(1579年)2月に上野箕輪城代となり、西上野支配を任された[1]。天正10年(1582年)3月に武田家が滅亡すると織田信長に仕え、同年6月に本能寺の変で信長が死去すると北条氏直に仕えた[1]。天正16年(1588年)に39歳で死去[1]。
法名は陽光院南雲宗栄[1]。