関 靖(かん せい、? - 199年)は、中国の後漢末期の武将。公孫瓚の家臣。字は士起(しき)[1]。
厳罰を好む官吏で上官には媚びへつらうだけの小人だったが、そのためか公孫瓚には重用された[1]。198年から袁紹軍の攻撃が本格化すると、公孫瓚は出撃策をとって敵を撃退しようとしたが、関靖はこれに反対して籠城策を進言し、結局追い詰められて公孫瓚は自殺する[1]。公孫瓚の自殺を知ると関靖は自分の策が失敗した責任をとって袁紹軍に突っ込んで戦死した[1]。
『三国志演義』には登場しない。
参考文献[編集]