鮮于輔
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鮮于 輔(せんう ほ、生没年不詳)は、中国の後漢末期から三国時代の魏にかけての武将・政治家。「鮮于」と珍しい姓や出身地から鮮卑族との関わりが推測されている[1]。
生涯[編集]
幽州漁陽郡の出身[1]。最初は劉虞の従事として仕えるが、193年に劉虞が公孫瓚に殺されると賀斉や鮮于銀と共に閻柔を鳥丸司馬に擁立して公孫瓚に対して復仇戦を開始する[1]。公孫瓚の部下で漁陽郡の太守であった鄒丹を殺し、さらに劉虞の遺児・劉和と合流して公孫瓚を滅ぼすのに貢献した[1]。
公孫瓚滅亡後は袁紹に仕えるが、袁紹が曹操に敗れると曹操に帰順し、魏成立後も北方異民族との折衝を務めた[1]。
『三国志演義』には登場しない。