田楷
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田 楷(でん かい、? - 199年)は、中国の後漢末期の武将。『後漢書』では「田揩」と書かれている。公孫瓚の家臣。
生涯[編集]
191年に公孫瓚から青州刺史に任命される[1]。界橋の戦いで公孫瓚が袁紹に大敗した後、勢力を盛り返して平原郡まで回復した際、公孫瓚は田楷を斉に駐屯させて劉備と協力させて2年余りの間、袁紹と戦わせた[1]。193年に曹操が徐州の陶謙を攻めたので、劉備は田楷と共に徐州へ救援に赴いた[1]。
194年に曹操が呂布の侵攻で徐州から撤退すると、田楷は劉備を徐州に残して青州に帰還する[1]。しかし袁紹の長男・袁譚が曹操から青州刺史に任命されて青州に侵攻して来たので、田楷は戦うも敗れて幽州に撤退した[1]。なお、袁譚の青州攻めの時期には諸説があり、196年に袁譚が孔融を追放したとする記録があるため、田楷もこの頃に青州を追われた可能性がある[1]。
199年、公孫瓚が袁紹の大軍に追い詰められて籠城していた際に城が陥落して、田楷は主君に殉じて敗死した[1]。
『三国志演義』では公孫瓚の家臣や劉備との関わりが触れられていない[1]。第11回でいきなり青州太守という架空の地位の人物として登場し、曹操に攻められた陶謙の家臣・陳登の救援要請に応じて徐州に向かうが、曹操が呂布に攻められて撤退したのを機に田楷も物語に登場しなくなる[1]。最期には触れられていない。