公孫越

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公孫 越(こうそん えつ、? - 191年)は、中国後漢末期の武将。従兄は公孫瓚。公孫瓚の従弟とされている公孫範との関係は不明で、兄弟とも従兄弟とも考えられる。

生涯[編集]

幽州遼西郡令支県の出身[1]劉虞が公孫瓚の諌めを聞かずに袁術の下に引き止められていた息子の劉和の下へ軍勢を派遣すると、公孫瓚は袁術に恨まれる事を恐れて公孫越に1000騎を与えて袁術の下へ密かに派遣し、袁術と同盟を結ぶと同時に劉和を逮捕してその軍勢を奪い取るように策動した[1]。袁術は陽城の守りに孫堅を駐屯させていたが、袁紹周昂に命じて攻めてきたので袁術が孫堅・公孫越に周昂と戦わせたが、孫堅と公孫越は敗れ、公孫越は流れ矢に当たって戦死した[1]。公孫越の死去を知った公孫瓚は「弟が死んだのは袁紹のせいだ」と激怒したという[1]。なお、公孫越は従弟であるが弟と呼んでいることから、公孫越と公孫瓚はかなり親しい信頼関係で結ばれていた親族ということが推測できる(当時は従弟でも親しければ弟と呼ぶ例もあった)。

三国志演義』では公孫瓚の弟とされており、第7回で登場。袁紹が韓馥から冀州を奪う際に公孫瓚に協力を求め、その見返りに冀州を半分ずつに分割しようと提案があったが冀州を乗っ取った袁紹がなかなか約束を履行しないので公孫越は公孫瓚の使者として袁紹の下へ派遣される。しかし袁紹は公孫瓚本人との交渉を望んだので公孫越はやむなく引き返そうとするが、その途上で董卓配下を装った袁紹の部下により襲われて矢で射殺された。

脚注[編集]

  1. a b c d 小出『三国志武将事典』P68

参考文献[編集]