金鍾泌
金 鍾泌(キム・ジョンピル、1926年(大正15年)1月7日 - 2018年6月23日)は、大韓民国の政治家。首相。金大中・金泳三両大統領と共に「三金」と評される韓国を代表する政治家である。1度は大統領にと言われたが、三金の中で唯一なることができなかった。
経歴[編集]
忠清南道扶余の出身。
1949年に陸士8期卒業。1951年に陸軍本部情報局作戦情報課長となる。1961年5月に朴正煕(当時は少将)と軍事クーデターを主導し(5・16軍事クーデター)、その功績により初代中央情報(KCIA)部長に就任する。1962年に当時の日本の外務大臣であった大平正芳との会談で、韓国側の対日請求権を「無償3億ドル、有償2億ドル及び民間信用供与」を提供する経済協力方式で合意する金・大平メモで3年後の日韓基本条約締結の道筋をつける。1963年に第6代国会議員に当選し、同年には民主共和党議長に就任する。1968年、民主共和党内の汚職事件で全ての公職を辞退し、政界を引退する。1971年、大統領選挙を控えて民主共和党の副総裁として政界に復帰し、国務総理(首相)に就任し、1975年まで務めた。
以後、ナンバー2として1973年に金大中が東京都内のホテルからKCIAらによって拉致された事件の処理のために訪日し、当時の日本の首相であった田中角栄に謝罪する(金大中事件)。そして1975年7月に当時の外務大臣であった宮澤喜一の訪韓という2度にわたる日韓政治決着を主導した。同年に韓日議員連盟の初代会長に就任した。
朴正煕政権ではこのように厚遇され重用されたが、1979年に朴正煕が暗殺されると全斗煥政権の下で政治活動を禁止され、一時はアメリカで逃避生活を送った。
1987年、大統領選挙に出馬したが敗れる。このため、盧泰愚政権の与党に合流する。1992年には金泳三の大統領選挙勝利で大いに貢献したが、金泳三政権では冷遇され、1995年に自由民主連合(自民連)を結成し、自ら総裁に就任する。1997年の第15代大統領選挙では土壇場で自身が政治信条とする議院内閣制の実現を条件に金大中への候補一本化で合意し、出馬を取りやめた。そのため、1998年2月に金大中が大統領に就任すると、金大中事件を不問にして国務総理(首相)に指名され、2000年1月まで務める。同年の7月から2004年まで再び韓日議連会長に就任し在任した。
2001年、自民連総裁に復帰したが、2004年に総選挙で落選したため、政界を引退した。
晩年までその影響力は絶大でいわゆるキングメーカーであり、2017年に朴槿恵大統領が国政スキャンダルで逮捕・起訴された際には、出直し選挙の出馬に意欲を示す保守系政治家らがお墨付きを得ようとして、相次いで車椅子生活を送っていた金のもとに訪れた。
同日、「無窮花大勲章」受賞が決まった。