程普
程 普(てい ふ、生没年不明)は、中国の後漢末期の武将。字は徳謀(とくぼう)[1][2]。子は程咨。
生涯[編集]
幽州右北平郡土艮県の出身[1][2]。孫堅の時代から仕えた宿老で呉の基礎を築いた武将のひとりである。
最初は郡や州の役人となる[1]。郡の役人の際に孫堅に仕えて184年の黄巾の乱や190年の董卓との戦いに参加した[1][2]。董卓軍との戦いでは多くの手傷を受けたという[2]。192年に孫堅が黄祖に敗れて敗死すると孫策に従い、孫策が祖郎の大軍に包囲されて退路を断たれた際には、一人の騎兵と共に自ら楯となって孫策を助けながら血路を開いて助け出した[1][2]。その後も孫策の部下として武功を立てて都尉となる[2]。200年に孫策が死去すると孫権に仕え、周瑜や張昭と共に補佐役となり、周瑜と共に左右の督に任命される[1][2][3]。
208年の赤壁の戦いでは周瑜と共に孫権軍の最高司令官として曹操軍を破る功績を立てた[1]。その後は荊州南郡の曹仁も破った[1][3]。210年に周瑜が死去すると後任の荊州南郡の太守に任命されるが、魯粛が劉備に荊州を分割して与えたため、江夏郡太守に再任される[1]。その後、盪寇将軍に昇進して間もなく病死した[1][3]。『呉書』では反逆者数百人を火の中に身投げさせたため、その祟りにより死去したとされている。没年に関しては215年より前だと推測される。
人物像[編集]
呉では最年長の武将のため、人々は尊重して「程公」(ていこう)と呼んだという[1][3]。若くして台頭した周瑜とは折り合いが悪かったが、周瑜が程普を立てたので程普は周瑜を敬服するようになったという(『江表伝』)。
『三国志演義』では第5回で孫堅の董卓討伐に従う武将として初登場し、鉄脊蛇矛を愛用する使い手として華雄の副将だった胡軫を討ち取る[1]。董卓が長安に遷都して洛陽に入城し、孫堅が古井戸から見つけた印を伝国の玉璽と鑑定するなど知識人・参謀としても描かれている[1]。赤壁の戦いでは周瑜が自分より若いのに大都督に就任した事を不満に思い、仮病を使って軍議に欠席したが、後に周瑜の才能を知って感服するという史実からの創作で話が進められている[1]。