傅巽
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傅 巽(ふ そん、生没年不詳)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての魏の政治家。字は公悌(こうてい)[1]。甥に傅嘏。
生涯[編集]
北地郡泥陽県の出身[1]。最初は後漢王朝の三公に招聘されて尚書令に任命されたが、戦乱を逃れて荊州に避難し、劉表に仕えた。208年に劉表が死去すると後継者の劉琮に対して曹操への降伏を勧める[1]。この功績により曹操から関内侯に封じられた[1]。
220年に魏が成立すると文帝から侍中に任命される[1]。226年の文帝の死後は明帝が即位し、その時代である太和年間(227年から233年)に死去した[1]。
容姿が優れ、博学で人物評価の能力を持ち[1]、魏諷のことをいずれ謀反を起こすと予言していたという[2]。
『三国志演義』では劉琮に曹操への降伏を勧める家臣の一人として登場。その功績により曹操から関内侯に封じられているのみである。