劉馥
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劉 馥(りゅう ふく ? - 208年)は、中国の後漢時代末期の武将・政治家。字は元穎(げんえい)[1]。劉靖の父。劉熙・劉弘の祖父。劉璠の曾祖父。曹操の家臣で揚州刺史。
生涯[編集]
豫州沛国相県の出身[1]。建安年間の初期に袁術の家臣であった戚寄・秦翊を説得して共に曹操に帰順した[1]。揚州刺史の厳象が殺されて治安が乱れると、上奏して揚州刺史に任命される[1]。その統治は恩愛と信義に恵まれた善政であり、208年に劉馥が死去した後に孫権が合肥に攻め込んできた際には劉馥が築いていた堤防や物資により常に撃退されたとまで伝わる[1]。
『三国志演義』では曹操の部下として赤壁の戦いで登場し、戦いの前に曹操が吟じた詩が不吉と指摘し、酒に酔っていた曹操は怒りに任せて処刑する。酔いから覚めると初めて自分の所業を知って悔やみ、子(実際は孫)の劉熙に遺体を渡して弔わせた。