浅井畷の戦い

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浅井畷の戦い
戦争: 戦国時代安土桃山時代
年月日: 慶長5年(1600年)8月
場所: 北陸地方(加賀・浅井畷)
結果: 西軍の戦術的勝利
交戦勢力
東軍 西軍
指揮官
前田利長 丹羽長重
戦力
2万5000名 3000名
損害
不明 不明

浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)とは、慶長5年(1600年)8月に発生した東軍前田利長西軍丹羽長重による戦いのことである。一般的に「北陸の関ヶ原」と称されている。

概要[編集]

通説[編集]

浅井畷の戦いは、「北陸の関ヶ原」とも称される合戦である。詳しくはWikipediaなどを参照にしてほしいが、この合戦についてはほとんどが二次史料に頼り切っており、一次史料はほとんど見向きされていない。そのため、実情に不明な点が余りに多すぎるのである。

通説では、「母親徳川家康により人質に取られた前田利長が東軍に属し、西軍に属した加賀国小松城主の丹羽長重を攻撃。しかし、丹羽軍の奮戦と小松城の要害堅固により落とせず、矛先を変えて大聖寺城山口宗永修弘父子を攻撃。大聖寺城を落として、山口父子を自刃に追い込んだ。しかし8月1日、中央で西軍に参画していた越前敦賀城主・大谷吉継が急を聞いて京極高次らを率いて越前に戻り、前田利長に対して「金沢に対して海路から上陸作戦を行なうなどの虚報を流し、それに動揺した利長が慌てて金沢に戻る。その最中に浅井畷の戦いで丹羽長重に襲撃され、兵力で勝る前田軍は少数の丹羽軍に畷という不利な地形もあって苦戦しながら、何とか金沢に引き揚げた。吉継は利長が金沢に撤退すると、越前の仕置を済ませてから美濃に向かって転戦した」、となっている。

しかし、一次史料を見ると不自然なところが余りに多すぎる。それを見てみたい。

西軍の北陸対処[編集]

一次史料においては、慶長5年(1600年)7月30日に石田三成真田昌幸に対して状況を説明する書状を出しているが、この際に「加賀の前田利長も、越後堀秀治も西軍に味方すると言ってきている」とある。

次いで8月1日、毛利輝元宇喜多秀家、石田三成、長束正家増田長盛前田玄以らは、木下勝俊利房兄弟に対して、北陸方面の備えとして越前北ノ庄城主・青木秀以の援軍に向かうように指示している。

わざと申し入れます。利長が小松方面に少しだけ進出し、人質のことなどを言ってきているようです。大したことはまず無いと思いますが、北ノ庄の青木の加勢として、そちらに木下を遣わします。勝俊と相談して出陣してください。今こそ忠節を尽くすときです。形だけの出陣にはならないよう粉骨の働きをしてください。なお、8月2日か3日に用意して、5日には到着して下さい

木下兄弟はそこまでの兵力も大身でも無いし、大した武勲もない。それを援軍に送ってどれだけの効果があるのかわからないが、西軍はこの時点で北陸は大丈夫、あるいは利長が人質を江戸にも大坂にも差し出していたから積極的な活動はできまい、と楽観視していた可能性がある。

一次史料から見る前田利長と大谷吉継の動向[編集]

前田利長にすれば、三成らの甘い見通しのおかげで随分助かっただろう。7月末に軍事行動を起こした利長は、加賀小松城を攻撃して小松城の外郭を焼き払い、付城2つを築いて先を急いだ。そして8月2日に山口父子が籠城する大聖寺城を攻撃し、同城を1日で攻略して山口父子を自刃に追い込んだ。

そして、この後に利長は確かに小松方面に撤退している。これは、大谷吉継に騙されたのではなく、小松方面の手当に不安を覚えて戻り、付城を普請してさらに強固なものにしていたのだという。事実、利長は8月22日までに家康に対し、指示があり次第近江に攻め込めることを報告している。青木秀以は一次史料を見る限り、8月中旬には利長に東軍に属すること、家康に背く意思がないことを表明している。

では、大谷吉継は何をしていたのだろうか。まず、大谷吉継というと、石田三成と並ぶ「武将」として知られ、ドラマ小説漫画などでは「茶会の席で自分のが落ちた茶を飲みほした三成の正義感に惚れ込み、慶長5年の時点では既にハンセン病が進んで余命わずかな自分の全てを捧げて、家康に敗北することを承知の上で西軍に参加した」とされている。しかし、吉継がハンセン病だったこと、石田三成との友情などは全て二次史料など後代の史料で確認できることで、一次史料では全く確認できない。

まず、一次史料で吉継は伏見城の戦いに参加し、伏見城を包囲する一翼を担っていたことが確認できる。ところが、『島津家文書』1957号では「7月28日に伏見城包囲中の島津惟新斎の陣中で大酒をしていたことが、よりによって大谷吉継本人の書状により確認されている。しかも、その大酒が翌29日まで残り、気分が優れなかったという」のだから、相当な飲酒をした可能性がある。

慶長5年の時点で余命幾ばくもなく、覆面をして目も見えず、歩行も困難な人間が、合戦の最中にそれほど大量の飲酒などするものだろうか。そもそも、吉継は本当に病気だったのだろうか。これについては傍証もある。吉継は秀吉没後、政権主宰者の家康から準奉行として抜擢され、慶長4年(1599年)に庄内の乱の仲裁、慶長5年(1600年)でも宇喜多騒動の仲裁、さらに上杉景勝上洛要請など、家康の命令で重要な事件の調整役として八面六臂の活動をしており、病気で幾ばくもない人間がこれほどのことができるのだろうか。

一次史料で確認できる吉継の動きは、8月1日に大坂城に帰城し、伏見城攻めの総指揮をとっていた毛利輝元から大坂の様子を報告するように命令を受けていることが確認される。

さらに『梵舜記』には以下のようにある。

『梵舜記』は豊国神社別当神龍院梵舜日記であり、かなり信頼できる史料である。その日記に「吉継が北政所を供奉して神社を参拝した」とあるのだから、事実だろう。二次史料でよく言われている「吉継の謀略で利長が金沢に撤退した後、美濃に向かった」はこれからも事実では無いことがわかる。そもそも、吉継は京極高次を連れて越前に向かったとあるが、高次は7月26日の時点で家康に味方することを表明し、大津城に籠城していたことが一次史料から確認できる。ただ、8月2日に山口父子を自刃に追い込んだ後、小松まで利長が引き揚げたので、吉継も畿内に引き揚げた、ならばスケジュール的に厳しいがあり得るかもしれない。

ただ、そうなると吉継も三成も、つまり西軍が北陸に対して何の手当もしていなかった、いや青木を信頼して木下を援軍に送り、一応の手当はしていたが、それだけ利長や北陸情勢を楽観視していた、と見ることはできるのではないだろうか。

一次史料を見る限り、浅井畷の戦いがあったことは古戦場などから見ても否定はしないが、通説で言われるような「吉継の謀略はなかったのではないか」「合戦自体が言われるほどのものではなく小規模だったのではないか」「利長はそれほど打撃を受けておらず、いつでも動ける情勢にあったのではないか」と言える点である。

これについては、今後の研究が待たれるところである。

外部リンク[編集]