青木秀以

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青木 秀以(あおき ひでもち、? - 慶長5年10月6日1600年11月11日))は、安土桃山時代武将大名豊臣秀吉の従兄弟。豊臣家の一門衆。越前国大野城府中城、次いで北ノ庄城主。千利休に師事した茶人としても知られ、名物の所持者でもあった。

生涯[編集]

父は青木勘兵衛。母は関弥五郎の3女。諱は秀以のほか、一矩(かずのり)、重治(しげはる)などが伝わる。通称は父親と同じ勘兵衛。受領名は紀伊守。

秀以の母の姉、つまり伯母が豊臣秀吉の養父である竹阿弥の夫人だったという。つまり秀吉の母親である大政所仲が秀以の伯母に当たり、その縁から秀以も従弟として秀吉に取り立てられたといわれているが、定かではない。美濃国大野郡揖斐庄で成長し、長じて秀吉の寵愛を受けた。天正15年(1587年)に九州征伐の戦功により、秀吉から播磨国立石城主に任命される。その後も越前国大野城8万石に、さらに文禄3年(1594年)に越前府中(武生)10万石に加増移封され、慶長4年(1599年)には越前北庄城21万石に加増移封された。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍大谷吉継の誘いを受けて西軍に属した。しかし既に重病であって出陣はかなわず、本戦の行なわれた9月15日から1か月も満たない10月6日に死去した。

関ヶ原本戦の後、東軍に属した加賀国前田利長は、東軍の勝利を知って秀以のいる北庄を攻めようと進軍したが、攻める直前になって秀以が死去したので侵攻をやめて、逆に秀以の遺児・青木俊矩のために徳川家康に対して所領の安堵を嘆願した。しかし、それは聞き入れられず青木氏は家康によって改易された。法名は西江院殿長英傑山大居士。