江東郡
位置 | |
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各種表記 | |
チョソングル | 강동군 |
漢字: | 江東郡 |
日本語読み仮名: | こうとうぐん |
片仮名転写: | カンドン-グン |
ローマ字転写 (RR): | Gangdong-Gun |
ローマ字転写 (MR): | Kangdong-Gun |
英語表記: | Kangdong-County |
統計(2008年) | |
面積: | 516 km2 |
総人口: | 80,409 人 |
行政 | |
国: | 朝鮮民主主義人民共和国 |
上位自治体: | 平壌直轄市 |
江東郡(カンドン-ぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)平壌直轄市東部にある、平壌直轄市2郡のひとつ。
地理[編集]
朝鮮民主主義人民共和国首都平壌直轄市の東部にある郡である。東は、平安南道成川郡・同道檜倉郡、西は平壌直轄市三石区域・黄海北道勝湖区域・同道祥原郡、南は黄海北道延山郡、北は平安南道成川郡と接する。名前の由来は大同「江」の「東」にあるという単純なもの。
西部平壌平原地帯と東部内陸山間地帯の中間地帯に属し、東北部から中央部にかけては山がちで、特に東北部には北大峰や太乙徳山などの高い山そびえている。西は大同江が北から南西方向に向かって流れ楽浪準平原が広がる。 江東邑にある大朴山の南麓に檀君陵がある。西北部の烽火山には烽火台が残っている。 南は晩達山があり、霊泉が湧いている。西には孫子山・進士峰などがあり、東には鳳頭山・帝釈山がある。 河川には、水晶川が萬柳堤を経て西江に注ぐ。西江は郡を南北に流れ、大同江の上流で合流する。南部では南江が西に流れ、能成江に合流し、大同郡の法首で西江とさらに合流し、大同江に注ぐ。
地質は、上部古生代と中生代の平安系に属する石灰岩を含む褐色森林土壌で、石炭などの鉱山資源にめぐまれている。また、軍の面積の76%ほどが、森林である。
内陸地方に位置するので、冬の北西季節風を防ぐ山がなく、大陸性気候の特徴をそのまま示す。年平均気温7.3℃、1月の平均気温-9℃、8月の平均気温は25.2℃、年間降水量1,079㎜であり、霜は通常、10月13日頃から降りて、翌年3月10日頃に終わる。
歴史[編集]
- 古朝鮮時代
- 古代 - 江東面文興里は江東地域の歴史が古いことを証明する。しかし、古朝鮮時代の記録はなく、詳しく知ることができない。鴨緑江の支流である佟佳江付近で発展し始めた高句麗の勢力が江東地方まで足を伸ばしたのは、帯方郡や楽浪郡を追い出した4世紀初頭と推定される。晩達山の麓の古墳で高句麗時代の遺物が発掘されたため、これを裏付けとしている。全盛期には忠清道地方まで伸ばした高句麗の勢力が次第に新羅の北進政策に押されて、最終的に668年に羅唐連合軍によって高句麗が滅びて新羅の領土となった。その後は統一新羅の北方境界線が大同江河口と元山を一直線に結んだあたりとなる。この郡は、今後新羅が滅びるまでの約220年間にわたって新羅の北の国境に位置するようになり、北方の胡族と競う最前線に置かれた。
- 高麗
- 高麗建国後 - 太祖が北進政策を掲げ、平壌を西京に改め、周辺のいくつかの村に城や鎮を設置し北進の拠点とした。当人口を増やすために黄海地方から住民を移住させた。989年には、西京に西北面兵士管理区域にが設置された。今日「平壌直轄市江東郡」と呼ぶ地域は、平壌を中心としたから西京畿四道:東道・西道・南道・北道を撤廃し、6県を置くされたときに設置した、江東県と三登県の両県を合わせた地域である。
- 1136年 - 仍乙舍鄕・班石村・朴達串村・馬灘村を江東県に、成川県に属していた新城・蘿坪・拘牙を三登県に編入
- 1216年 - 蒙古軍に追われた契丹族が鴨緑江を渡って、江東地域は激しい戦乱に巻き込まれた。追われてきた契丹族が約2年間に渡って西北地域の各地で蛮行をした
- 1218年 - 江東城が哈真が率いる1万人の蒙古軍と完顔子淵が指揮する東真軍が、契丹の残党を討伐しようと進軍
- このとき生け捕りした一部の契丹人の各地に住まわせた結果、契丹場が生じるようになった。
- 1228年〜1248年 - 江東城の戦いの後、10年後から約30年間にわたって蒙古軍の高麗侵略が行われた。
- このとき江東は再び戦乱に包まれ、荒廃した。
- 李氏朝鮮
- 朝鮮建国後 - 全国の地方行政区域が8道区分されて北面と呼ばれてきた西北地方が平安に改名されて観察使が派遣された。
- 江東県は県監、三登県は県令が置かれた
- 1435年
- 江東在住の郭巨が県監を暴行した事件が発生
- 江東県が廃止され三登県に合併
- 県の名称は三登県のままで、県令所在地が旧江東県地域に移される
- 1438年 - 朝貢路としては宿場も商店も交易場も貧弱だった江東地域に下三道の人を移住させる。
- 1440年 - 下三道からの2度目の移住政策を展開
- 1482年 - 三登県が分割されて元の2県になる
- 1592年〜1598年 - 文禄・慶長の役のとき、平壌を占領した二日間・5,000人の兵が江東地域に布陣。
- 平壌収復作戦が展開
- 1811年
- 洪景来が西北地方を襲う。
- 江東県監李晋淵が江東の軍を率いて討伐
- 朝鮮建国後 - 全国の地方行政区域が8道区分されて北面と呼ばれてきた西北地方が平安に改名されて観察使が派遣された。
- 大韓帝国・日本統治時代
- 郡の人々は、韓末義兵運動に積極的に参加し国権守護の愛国運動に献身した。活躍した義兵としては、金成律・金興錫・朴長孫・徐光道・申炳斗・張正元・鄭弘根などであり、主に三登地方でゲリラ式戦闘を展開し、日本官憲を混乱させた。
- 地下資源が豊富で、日本統治時代には、日本の経済収奪が激しく勝湖里セメントと無煙炭鉱が開発された。
- 1914年 - 郡面併合により、平安南道三登郡と成川郡文憲面を以て江東郡(旧)を設置
- 江東面・晶湖面・三登面・晩達面・古邑面・区池面・馬山面・高泉面・元灘面
- 1929年 - 行政区画の改編を実施
- 馬山面・区池面と高泉面・古邑面の各一部を合併し鳳津面を設置
- 古邑面の残りが元灘面・高泉面に分割編入
- 晶湖面が江東面・三登面に分割編入
- 三登面の一部が晩達面に編入
- 元灘面の一部が高泉面に編入
- 1941年10月1日 - 晩達面が勝湖邑に昇格
- 朝鮮民主主義人民共和国
- 1947年
- 1952年 - 郡面里統廃合により、平安南道江東郡江東面・鳳津面・高泉面および三登面・元灘面の各一部、成川郡三興面をもって、江東郡を設置
- 江東邑・松街里・黒嶺労働者区・文興里・香木里・東里・麦田里・龍興里・明義里・垈里・文明里・松石里・香壇里・卵山里・九賓里・花岡里・太岑里・紫陽里・郷校里・下里・下端里・漢王里・道徳里・広徳里・三成里
- 1954年 - 漢王里の一部を広徳里に編入
- 1956年 - 平安南道檜倉郡順昌里を編入
- 1958年 - 勝湖郡金玉里の一部を松街里に編入
- 1959年
- 1960年 - 金玉里・貨泉里・三青里が平壌直轄市勝湖区域に編入
- 1963年 - 下里が下里労働者区に昇格
- 1967年
- 下端里・漢王里が平城市に編入
- 郷校里が烽火里に改称
- 高飛里が高飛労働者区に昇格
- 松街里が松街労働者区に昇格
- 垈里が垈里労働者区に昇格
- 1977年
行政区域[編集]
- 江東邑(カンドンウプ)
- 高飛労働者区(コビロドンジャグ)
- 南江労働者区(ナムガンノドンジャグ)
- 垈里労働者区(テリロドンジャグ)
- 嶺南労働者区(リョンナムノドンジャグ)
- 上里労働者区(サンニロドンジャグ)
- 束芻労働者区(ソクチュロドンジャグ)
- 松街労働者区(ソンガロドンジャグ)
- 下里労働者区(ハリロドンジャグ)
- 黒嶺労働者区(フンニョンノドンジャグ)
- 九賓里(クビンニ)
- 東里(トンニ)
- 卵山里(ランサンニ)
- 龍興里(リョンフンニ)
- 麦田里(メクチョンニ)
- 明義里(ミョンイリ)
- 文化里(ムナリ)
- 文興里(ムヌンニ)
- 烽火里(ポンファリ)
- 三登里(サムドゥンニ)
- 松石里(ソンソンニ)
- 順昌里(スンチャンニ)
- 太岑里(テジャムニ)
- 香木里(ヒャンモンニ)
- 花岡里(ファガンニ)
農業・産業[編集]
農業[編集]
郡の面積の約20%が耕地であり、水田が17%、畑が68%を占めている。トウモロコシ・米・大麦・小麦・大豆・などの農産物が栽培されている。さらに、養蚕・タバコ、郊外の農業地域で根菜や白菜をはじめとする野菜が多く生産され、大規模な鶏・アヒル・豚などの牧畜・養蚕・リンゴ・ナツメ・アプリコット・栗がたくさん育つ。 特産物としては、繭・落花生・栗などがある。繭は江東繭といい、上質なものとして全国的に有名である。ここ平壌の栗は、味が良く咸從・江西・成川の栗と共に全国的に知名度が高い。
産業[編集]
平安南道南部に分布するの炭田の東端の主要部をなし、無煙炭の埋蔵量が多い。東部の炭田は東西26㎞、南北18㎞に渡って広く分布している。晩達山・江東・三登の各地域の炭鉱で比較的多く採掘され、この他に質の良い石灰岩がいたるところに多く勝湖里セメント工場の原材料となっている。
- 江東地区炭鉱連合企業所
- 黒嶺炭鉱
- 江東炭鉱
- 嶺南炭鉱
- 徳山炭鉱
その他食料・日用品・機械・紡織および布・建材など様々な工業部門が新たに発展している。
商業[編集]
山間部の各地と大同江沿岸に定期市場が開設されている。江東邑の「懸內市場」は三日市・八日市であり、三登里の「朝陽市場」と高飛労働者区の「高飛市場」、「鳳津市場」は、一日市・六日市である。旧江東郡であった、勝湖地域にも市場はあり、旧勝湖邑勝湖里「勝湖里市場」は五日市・十日市、閱波里の閱波市場は二日市・七日市である。
朝暘市場では主に農産物が取引され、勝湖里市場は生地と水産物の取引が活発である。懸内市場・勝湖里市場・閱波市場には「懸内家畜市場」「勝湖里家畜市場」「閱波家畜市場」がそれぞれ併設されており、特に閱波家畜市場は取引が活発である。
教育・文化[編集]
- 1672年 - 清渓書院が建立。
- 1907年 - 朴道鉉が敬信学校を、金尙俊が光明学校を設立
- 1908年 - 李錫文が崇徳学校を、李龍均が普成信塾を立て、金淳奭は、信興学校を設立。
- 大韓帝国末期 - 信興・崇徳・啓明という、同じ名を冠したのキリスト系教の学校が建設
- 1920年
- 勝湖邑に金秉斗と呉復元が三成義塾を設立。
- 晩達面に三成小学校が建設。
- 1931年 - 明倫学院を設置
- 時期不明
- 天道教が江東町に宗理院を設置
- 儒林会が各地で講演会を開催
「李富坪伝説」・「黄鶴楼伝説」・「官窟伝説」などの説話が伝わっている。
交通[編集]
鉄道[編集]
道路[編集]
水運[編集]
大同江の水運はいかだで木材と新炭を運搬するために使用されてきた。
江東八景・三登八景[編集]
詳細は「江東八景」を参照
詳細は「三登八景」を参照
この呼称は、江東郡が江東県と三登県だった当時のものである。
江東八景は大朴山採蕨、台山寺暮鐘、水晶川釣魚、舍人岩放鷹、鳳岳霽雪、龍橋晩泊、進士峰玩月、暮雲台観燈の八か所のよい風景をいう。 三登八景は架山寺暮鐘、墨村春耕、鷹岩垂釣、鸚洲泛舟、黄鶴楼秋月、鳳岑晴嵐、孤山點雁、広亭飛雪の風景をいう。