武藤常昭

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武藤 常昭(むとう つねあき、永正5年(1508年) - 天正15年3月18日1587年4月25日))は、戦国時代武将武田信玄の母方の叔父に当たる。甲斐武田氏家臣

生涯[編集]

父は大井信達で6男。武田信玄の生母・大井の方の弟に当たる。官途は神右衛門尉。受領名は三河守。兄に武藤信堯大井信常らがいる。諱の常昭は兄の信常からの偏諱と見られている。

天文19年(1550年)10月1日の砥石崩れで兄の信堯が戦死したため、その名跡を継承して武藤姓を称したという。ただ、信堯には息子に竹千代丸(武藤三郎左衛門尉)がおり、彼の死後に常昭が継承した可能性もある。また、継承に関しては信堯→竹千代丸(武藤三郎左衛門尉)→武藤喜兵衛(真田昌幸)→常昭の可能性もある。つまり、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦い真田信綱昌輝が戦死し、武藤喜兵衛が真田昌幸と改名して真田家の家督を相続することになったため、常昭が武藤家の家督を相続することになった可能性もある。

常昭は武田信玄・勝頼に仕え、信玄の時代には永禄9年(1566年)閏8月に下郷起請文にその名が見える。勝頼の時代には公事奉行衆の1人に列しており、長篠の戦いが行われた前後に竜朱印状の奉書・奏者としての活動が確認されている。

天正10年(1582年)3月、織田信長武田征伐により甲斐武田家が滅ぼされると、出家して松月斎延子と称した。天正15年(1587年)3月18日に80歳で死去した。