長谷川如是閑

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長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年明治8年)11月30日 - 1969年昭和44年)11月11日)は、日本ジャーナリスト評論家思想家。本名は万次郎。大正デモクラシーの代表的な論客、自由主義者で、明治・大正・昭和の3時代にわたって活躍した。貴族院勅選議員も務めた。

略歴[編集]

父は山本徳治郎。母はたけ子。東京府深川出身。

最初は陸羯南の新聞・『日本』に入社し、三宅雪嶺の『日本乃日本人』を経て、明治41年(1908年)に大阪朝日新聞に入社。大正3年(1914年)に鳥居素川が編集局長となり論説主任を兼ねると、丸山幹治大山郁夫櫛田民蔵らと共に社会部長として大正デモクラシーの論陣を張り、「天声人語」を担当した。大正4年(1915年)には甲子園を大いに推進し、その創設に尽力している。

大正7年(1918年)に米騒動が発生し、それにより大阪朝日新聞は政府に対する攻撃を強めていたが、この際に同新聞に載っていた「白虹日を貫けり」の文言が政府により問題視される(白虹事件)。「白虹貫日」は中国の古典に見られる決まり文句であり、兵乱が起こる兆候を示すと言うものだが、これが政府から「朝憲紊乱」に当たるとして弾圧されたのであり、結局長谷川は同社社長の村山龍平や鳥居、大山らと共に退社に追い込まれることになった。

大正8年(1919年)に長谷川は大山と共に雑誌『我等』を創刊し、以後は『批判』などで社会批判を続けた。大正9年(1920年)には森戸事件で被告の擁護を務めている。大正10年(1921年)には『現代国家批判』を出版した。昭和13年(1938年)には『日本的性格』を出版している。

大正デモクラシー期の民主主義者である長谷川は、昭和期になると高まる軍国主義を痛烈に批判する。特に長谷川は徹底したドイツ観念論を嫌い、その生涯においてイギリス流の自由主義経験主義の立場を押し通した。

昭和23年(1948年)には74歳で文化勲章を受章した。長谷川は明治・大正・昭和の3時代において自由なジャーナリストとして評論、随筆、小説などに百科全書的才筆を振るい、膨大な著作を残した。評論家の大宅壮一は長谷川を「思想のピラミッド」と評している。

昭和44年(1969年)11月11日、老衰のため94歳の高齢で死去した。墓所は東京都文京区向丘の清林寺にある。

断じて行わず」が長谷川の座右の銘であり、あくまで「見る」立場から「筆」1本を堅持することをモットーとしたという。

著書・著作物[編集]

  • 『奇妙な精神病者--長谷川如是閑集』 全国ユーモア全集刊行会、1929年
  • 戦争論』 理想社『戦争論』、1933年
  • 『長谷川如是閑選集 (全7巻+補巻)』 栗田出版会、1969-70年
  • 近代日本思想大系15 長谷川如是閑集』 宮地宏編、筑摩書房、1976年
  • 『長谷川如是閑集 (全8巻)』 岩波書店、1989-90年
  • 『如是閑文芸選集 (全4巻)』 岩波書店、1990-91年
  • 『日本人の知性7 長谷川如是閑』 学術出版会、2010年
    • 復刻で元版は『現代知性全集32 長谷川如是閑集』 日本書房、1960年

文庫判[編集]

日本図書センター「人間の記録45」で再刊、1997年
  • 『私の常識哲学』 講談社学術文庫、1987年
  • 『長谷川如是閑評論集』 岩波文庫、1989年
  • 『倫敦!倫敦?』 岩波文庫、1996年 
  • 『ふたすじ道・馬 他三篇』 岩波文庫、2011年

電子テキスト[編集]

如是閑研究主要文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]