松下氏

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松下氏(まつしたし)とは、日本氏族である。若い頃の豊臣秀吉が仕官していた松下氏が有名である。

概要[編集]

三河国碧海郡松下村(現在の稲沢市)に居住していたことから、松下姓を称したのが起源といわれている。この家が詳しくわかるのは松下長則からで、当時は今川氏後北条氏武田氏という近隣の強豪大名の中で生き延びていた。その子・之綱今川義元に仕えて遠江国頭陀寺城主(現在の浜松市)で、長上郡西塚村に30貫文の所領を領していた。なお、この際に諸国を放浪していた織田信長に仕官する前の秀吉が之綱に仕官していたと言われている。

永禄3年(1560年)5月に桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると今川氏は急速に衰退し、それに変わって三河で台頭した徳川家康が遠江国に侵攻すると、家康に仕えることになる。後に秀吉が覇権を掌握すると、その昔の恩義や関係もあって秀吉から招かれ、天正15年(1587年)に従五位下石見守に叙任され、3000石の知行を与えられる。天正18年(1590年)に秀吉が小田原征伐北条氏直を滅ぼし、家康を関東に移すと、秀吉から改めて1万6000石の所領と遠江国久野城主の地位を与えられた。

慶長3年(1598年)に之綱・秀吉は相次いで死去し、松下氏は之綱の子・重綱が継承。重綱は秀吉を失って衰退する豊臣氏を見限り、新たに台頭した徳川家康に従い、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属して「首級50余」を討ち取る戦功を挙げた。このこともあり松下家は存続を許され、後に家康の3男・秀忠に仕えて遠江久野から常陸国筑波(現在のつくば市)で1万6000石を改めて与えられた。大坂の陣でも戦功を挙げ、下野国烏山藩(現在の那須烏山市)に2万8000石を与えられて移され、さらに陸奥国二本松藩に5万石を与えられて移封された。後に之綱の孫の長綱が陸奥三春藩3万石に移されたが改易。後に、長綱の次男の長光が寄合旗本になって再興した。

関連項目[編集]