東ティモール

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国旗

東ティモール民主共和国(ひがしティモールみんしゅきょうわこく、英語: East Timorポルトガル語: República Democrática de Timor-Leste)とは、小スンダ列島の東端、ティモール島の東半分と北西部の飛び地オエクシから成り立つ国家である。政体共和制。国土面積は1万5000平方キロ(日本岩手県と同規模)。人口2011年の時点で117万8000人。人口密度は79.2人/㎢。首都ディリ。国名の由来はマレー語の「timur(東を意味する)」が転訛したもので、ティモール島の東部地域を意味するものである。ちなみにロロサエはテトゥン語と同義である。

概要[編集]

歴史[編集]

1520年代にポルトガルにこの地域は植民地として支配された。しかし第2次世界大戦が開始されると、この地域は旧日本軍に征服される。1945年の日本の敗戦後は再度ポルトガル領となる。この地域は小国ながら、東部のロロサエ系と西部のロロモヌ系との間に、長期間にわたる確執があった。実はどちらも同じテトゥン人なのだが、方言歴史的背景が微妙に異なっていたことから確執が生まれていたのである。そして、1975年にポルトガル軍の撤兵が行なわれ、同時に独立運動組織のフレテリン(東ティモール独立革命戦線)が一方的に独立を宣言してしまう。これに激怒したインドネシアは軍を侵攻させ、1976年に同地域を強制的に併合するに至った。フレテリンはこれに対して、民主主義と抵抗の象徴の一環として、マムバイ地方に多い人名で「貧しき民」という意味を持つ「マウベレ」に基づいて、マウベリズムを創造した。これは理論的な裏づけが無く曖昧なもので、わかりやすく言うならば「東ティモールが独立闘争する過程から生まれた民族統一思想」である。ところが、この曖昧な思想であるマウベリズムが独立までの間は東ティモール人の民族的なアイデンティティの支えとなって、独立闘争を支えたのである。

1999年、インドネシアで民主化の流れに伴って、独立の賛否を問う住民投票が実施されて独立支持派が圧勝する。ところがその直後に併合派民兵による騒乱が勃発し、結果として25万人の避難民が西ティモール側に流出することになった。そして同年10月、インドネシアによる併合撤回決議を受けて、国連の東ティモール暫定統治機構(UNTAET)が発足し、2002年5月20日にインドネシアから独立を達成した。これは21世紀で最初の主権国家の誕生でもあった。

だが、独立闘争のために国土は荒れており、2006年4月には地域格差、高い失業率を原因とした暴動が起こる。2007年8月にはシャナナ・グスマン大統領首相とする政権が発足するも、政情は未だに不安定である。これは独立闘争から生み出されたマウベリズムが、よりによって地域対立に根ざす住民同士の衝突や民族闘争に結びついていったのも一因していると言われている。

地理など[編集]

国土は山がちで、島内最高峰のタタマイラウ山は標高2963メートルの高さを誇っている。気候は亜熱帯性のサバナ気候で、雨季と乾季に明確に分かれている。

首都・ディリの年平均気温は26.8度で、最高気温が11月の27.7度、最低気温は7月の25.2度であり、年間降水量は860ミリである。

経済など[編集]

資源は、ティモール海の海底油田が財政源になると期待されているほか、コーヒーなどの農業沿海漁業が主な産業である。2009年の時点でインターネットの普及率は0.19パーセントと世界で最も遅れていた。国内総生産GDP)における軍事費率は2009年の時点で11.75パーセントと世界一を誇っている。

宗教[編集]

住民[編集]

  • メラネシア系テトゥン人が90パーセント。ハーフカスト(白人とオセアニア又は海洋アジア人種との混血)が7パーセント。その他(ポルトガル系白人、アジア系など)が3パーセント[1]

言語[編集]

通貨単位[編集]

国内総生産[編集]

  • 1人当たり国内総生産は588米ドル(2010年

脚注[編集]

  1. 東ティモール人口調査(2020)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

政府
日本政府