呉質

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呉 質(ご しつ、177年 - 230年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将政治家季重(きじゅう)[1][2]。子は呉応呉夫人司馬師の妻)。孫は呉康

生涯[編集]

兗州済陰郡(現在の山東省)の出身[2]。才能があり博識だったとされ、曹操に仕えてその嫡子の曹丕や他の諸侯から愛されたという[2]

世語』によると、曹操の後継者をめぐって曹丕と曹植が争っていた際、曹植が美辞麗句を連ねて曹操の出陣を見送ったのに対して、呉質は曹丕に耳打ちして無言で涙を流させて評判をとったという。また、曹丕が呉質を行李の中に隠して密かに参内させて対策を練っていたが、曹植を支持する楊脩が見抜いて曹操に報告したが、曹丕がそれを心配して呉質に相談すると呉質は「次は絹を入れた行李を運べばいい」と言ったのでその通りにし、楊脩が曹操に再び報告したので曹操は行李の中を調べたがそこには絹しか入っていなかったので曹操は楊脩を疑うようになったという。こうして曹丕の擁立に貢献した呉質は、217年に曹丕が魏国の王太子に任命されると司馬懿陳羣朱鑠と共に太子四友となった[2]。官職は朝歌県長を経て元城県令、振武将軍となった[1]

220年に曹操が死去すると曹丕に仕え、同年に曹丕が魏を建国して文帝として即位すると、呉質は出自のために低い身分だったので曹丕は招聘して北中郎将に任命して列侯に封じ、さらに使持節都督諸軍事に昇進する[2]。しかし文帝の信任と威光を笠に着て横暴な振る舞いも多く、そのため政敵も少なくなかった[2]226年に文帝が崩御して明帝の時代になると中央に召喚されて230年に侍中に任命されているが、同年に54歳で死去した[2]

その傲慢な態度や政敵の追い落としの数々から、没後に醜侯と諡号を贈られた[2]。しかし息子の呉応が事実に反すると訴えたので、正元年間(254年から256年)に威侯と改められたという[2]

三国志演義』では第72回で楊脩が曹操に殺される際、その一因として史実の行李の話が挙げられているが、その際に登場するのみである[2]

脚注[編集]

  1. a b 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、103頁
  2. a b c d e f g h i j 小出『三国志武将事典』P232

参考文献[編集]