李典
ナビゲーションに移動
検索に移動
李 典(り てん、174年 - 209年[1])は、中国の後漢末期の武将。曹操の家臣。字は曼成(まんせい)[2][1]。子に李禎。
生涯[編集]
兗州山陽郡鉅野県の出身[2]。初平(190年から193年)年間に叔父の李乾と共に軍勢を率いて曹操の家臣となる[2]。呂布との戦いで李乾が戦死し、その後に李乾の子・李整も死去したため、李典が中郎将となって軍勢を率いる事になり、穎陰令・中郎将[1]・離孤郡の太守に任命される[2]。官渡の戦い、黎陽の戦い、博望坡の戦いにも参加して武功を立て、さらに袁尚らの討伐のため北方遠征にも従軍して楽進と共に高幹や管承の討伐で武功を立てて捕虜将軍に昇進して都亭侯に封じられる[2]。またこれを機に李典は乗氏にいた一族家臣を鄴に移住させた[2]。曹操は李典を裨将軍[3]から破虜将軍に昇進させた[2]。
李典は張遼や楽進とは不仲であったが、孫権が合肥に侵攻してきた際に「これは国家の大事であり、私怨で公の道義を忘れはしない」と言って張遼と協力して800の歩兵をもって10万の孫権軍を破った[2][3]。この武功で100戸を加増されて合計300戸となる[2]。李典は名将だが曹操配下の名将の仲では領邑は最も少なく、意外にも軍事より学問を好んだ上に謙虚で諸将と功績を争わなかった[2]。36歳の若さで死去した[2]。没後、文帝が帝位に就くと愍侯と諡された[2][2]。
『三国志演義』では曹操の董卓討伐から登場する。曹操軍の主将として各地を転戦するが余り目立った活躍は無い。むしろ劉備との戦いでは趙雲に敗れて曹仁に斬られそうになったりするなどやられ役として描かれている。第68回を最後に楽進と共に物語から消えている。